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2009年02月06日
「真夏の夜の夢」

第二回  村上 勝臣(06トンガ)

私のサモア旅行記から

サモアについては2009年サモア近海地震による津波が発生し報道されたので皆さんの記憶に今もあると思います。この話はその2年前、私がトンガ勤務時、任国外旅行したときの1コマです。

2007年9月26日午前1時半、私の乗ったサウスパシフィック機は2時間前、フィージーのナンディ空港を離陸し、サモアの主都アピアのファレオ国際空港に着陸した。

私はナンディ出発前、投宿していたナンディの安ホテルバックパッカーズでJICAトンガ事務所のOさんからFAXを受信していた。

FAX曰く「村上さんはサモア到着日のホテル未確定とのこと。到着は深夜なのでJICAでホテルの予約をしました。“ホテルキタノツシタラ”。空港でホテル従業員が“Mr. Murakami”の掲示板を掲げています。その車に乗りホテルへ向かって下さい。送迎料金は40サモア$ですからそれを支払う事」。

私はOさんに感謝し、空港内でさし向き必要なサモア$を換金し空港出口ロビーに向かった。換金に20分ほど手間取ったので殆どの客は雨散霧消していた。

「車は上の駐車場だ」と言って私の看板を掲げ待っていた男は、私の先にたって車寄せから続く階段を上って行く。

サモア人にしては肌の白いその男は私が乗り込むと黙って車を出した。プーチンロシア前大統領にそっくりのがっしりした体躯だった。車は白い三菱ランサーだった。

私は車が走り出すと、若しかしたら詐欺団に嵌められたのではと直感した。

『一般的には、客を送迎するのは、ホテルのマイクロバスだ。そのうえ出迎え人はろくな挨拶もしない。若しそうだとしたら、ここでこの男と口論して、午前2時近く初めての外国で車外に放りだされでもしたら生死にかかわる。今夜はとにかく部屋にたどり着いて休むことだ』と気を静めた。

車は満天の星空の下、白い平坦な道を一路アピアの市街へ向かって走った。1キロ位の間隔で道路の両側に数軒の家が立ち並ぶ集落を幾つか通過した。集落に入ると街燈がついて居るので直ぐそれと解った。真夜中とて行きかう車もなかった。

1時間も走ったろうか。いたく長く感じたがどうやらアピアの街に入ったようで両側に街燈がともり家並みが見えた。

ほどなく、車は止まり、プーチン大統領そっくりさんは、クラクションを鳴らした。待っていたように、ガードマンが門を開けた。車は右折して構内に入った。どう見てもアピアで有名なホテルではない。「地球の歩き方」を機内で見て来たがホテルキタノツシタラは街の奥まった位置にある。ここは街の入口だ。

車から降りると、男はガードマンと暫くサモア語で話していたが、ガードマンから鍵を受け取り、私を一階の外からそのまま入れる1室のドアを開け、部屋の電灯をつけてから鍵を私に渡した。建物は2階建てのアパートのような造りでどの部屋も灯は消えていた。

「明日午前9時に来る。お前がホテルを変えたければ私が案内する。旅行したければ私が紹介する。何かあったらここへ電話しろ」と電話番号を書いたメモ用紙をわたすと立ち去った。私は自分の身の安全を考えて口論するのを抑えて一応「ありがとう」と言って別れた。

部屋はワンルームであったが清潔だった。温水シャワーも使えた。私はシャワーを浴びてからフィージーから持ち込んだラム酒を一杯飲んで先ず朝を待つことにした。

『若しかしたら、私の屍が太平洋に浮くようなことになるかもしれないな。それは運とあきらめるとして、JICAへ迷惑がかかるのは避けなければならない。プーチンは朝9時に来る。それまでにJICAサモア事務所へ救助を求め迎えに来てもらおう。朝一番にサモア事務所へ電話するために公衆電話を起きたら探そう』。午前3時過ぎたころ、うとうと眠りに落ちたようであった。

朝、車の騒音で目が覚めた。7時だった。南国の朝日がさしていた。私は部屋を飛び出して道路へでてみた。

ここは矢張りモーテルで「ヘニ―ホテル」と看板がでていた。首都だけあって、アピアはもう車の往来が始まっていた。この道は空港からアピア市街地へ向かう幹線道路であるはずだ。従って車の往来も激しいのだろうと思いながら空港の方へ50mばかり歩いて、路傍にコンビニエンスストアを見つけ、公衆電話があることを確認して、テレフォンカードを買った。JICA事務所へは8時ごろ電話しょうと考えながら、朝食のパンと牛乳を買って戻った。

私は「おや」とヘニ―ホテルの入り口で立ち止まった。このホテルの道路を挟んだ向かい側に「バレンタインモーテル」の看板を見つけたのである。確かに事前に読んだ案内書のとおり空港から来て左側にあった。ヘニ―ホテルは「地球の歩き方」には載っていない。

いったん部屋に戻ると私は、急いでバレンタインモーテルへ向かった。

トンガ人のように大柄な中年のママさんが未だ乳離れをしない娘を抱えて迎えてくれた。私は早朝押しかけた事を詫びてEメールで申し込んだが返事得られず、来てしまったが部屋が空いていれば一週間逗留できないか尋ねた。

「空調のある部屋はふさがっているが、扇風機の部屋はOK。村上からのメールは受信していた。暫くコンピュータが故障して貴方のメールは三日ほど前に読んだ。空港に迎えはだしたのだけれど」と調子のいい返事が返ってきた。

「一〇分後にはチェックインしたい」。「OK」。

私は『神は私を見捨てなかったようだ』と呟きながら八時前にバレンタインモーテルへチェックインした。

朝9時、『白昼、幾ら強盗団でも観光客に殺傷行為はしないだろう』と思いながらも警戒しながら道路を渡ってヘニ―ホテルへ行った。プーチンはアロファシャツに身を包んで相変わらず精悍な顔をして現れた。私は挨拶を交わした後バレンタインモーテルへ移る事を説明した。プーチンは『ちぇっ。大きなカモを逃がしたわい』という表情をしたが「OK。何か私に頼みたい事があれば、いつでも私に電話して来い」と言って白いランサーを走らせて立ち去った。その引き際の潔さは慣れているのか敵ながら見事に感じた。

私は開店したモーテルのフロントと言ってもホテルとは全く装いの違う事務室にたちよった。一泊の清算と鍵を返すためである。日焼けしたサモアのお嬢さんが一人いた。請求書の中にはぽっきり40サモア$の送迎料金も含まれていた。

私は清算した後、プーチン氏について聞いてみた。彼女は、「彼の仕事はねえ。いろいろと観光客を空港で拾ってホテルへ案内するの。今回、貴方を2晩泊める約束だったの。その後は別のホテルへ泊めると言っていた。彼に会いたければ、このモーテル内にあるそこのバーに来れば今夜9時ごろ会えるわ。彼は毎晩来るの」。目をやるとそれらしい建物が見えた。

少し気持に余裕の出た私はその夜9時、ヘニ―ホテルのバーへ行ってみた。プーチンは薄暗いカウンターに座って何か飲んでいた。私は彼のそばに座りビールを注文し「ビール一杯どう」と話しかけた。「ノー」と彼は言ったが「良いめぐり合わせに」というと「それじゃラム酒」というので彼にラム酒をおごった。そのとき私は今回の経緯について彼に質問するのを止める気持ちになっていた。

「ビリヤードをやらないか」と彼は私を誘ったが私は出来ないと言って断った。彼は知り合いらしい男と1時間ビリヤードをやり白いランサーで走り去った。帰りがけに「何か頼みたい事があったら電話しろ」と私に言った。「OK」と私は答えた。

私はその後一週間、あの冒険小説「宝島」を書いたスティーブンソンの住居であった博物館訪問、島めぐり等を楽しみながら一週間バレンタインモーテルに滞在した。宿泊者の多くはオーストラリア、ニュージランドの観光客だった。そこは案内書の通り家庭的な雰囲気だった。

私はJICAサモア事務所には定期的に電話報告をしたがミステリーの話はしなかった。冒険小説「宝島」の生まれた島で体験した私の小さい「真夏の夜の夢」としてとっておこうと考えたからである。










(2007.11.01トンガTCC社宅で)