第3回リレー寄稿第4回→第5回
2010年05月03日
「私とミャンマー」

JOCV S62-1 Samoa
SV 2000年 Jordan
山崎 義行


リレー寄稿のお鉢が廻って来ましたので昔の記録を読返しながらこの会と縁の深い「BHNテレコム支援協議会」との出会いともなったミャンマーの事を少し書かせていただきます。
1997年、初めてミャンマーを訪れた。ほとんどの日本人が持っているだろうイメージは「軍政統治の国=大変危険・恐い国」と言うものだと思う。実際、私もそう思って初めてミャンマーの首都ヤンゴンに入った。
しかしそんな先入観は国内に入ってミャンマーの人々と触れ合う事により見事に打ち消されてしまう。

ヤンゴンのシンボル「シェダゴンパゴダ(寺院)」 世界遺産のパガンのパゴダ群

「人々がとてもやさしい、誠実で誠意がある」そして皮肉にも厳しい軍政のお蔭?で「とても治安の良い安全な国」となっている。東南アジア各国を仕事で廻ったがある意味この国ほど安全な国はない、帰る頃にはもう一度訪れたいと思うようなっていた。そしてその願いは間もなく叶う事となる(後述)。

ビルマ(ミャンマー)の人々は日本を自分たちがイギリスから独立するのに力を貸してくれた国と今もその恩義を忘れていない。敗戦後の日本に「米」の援助をしているのもその表れだ。
そして、ミャンマー独立の父と呼ばれ国民の絶大な人気を集めているのがアウンサン将軍。そう、あのスー・チーさんのお父さんなのです。

軍政は1990年の選挙で、その超有名人の娘であるスー・チーさんの政党が圧勝したにも関らず政権移譲する事はなかった。
その後のミャンマーはご存じの通り、世界中からの経済制裁を受け、今では世界の最貧国の仲間入りをしてしまった。
その昔、アジアからヨーロッパへ飛ぶ飛行機の殆どはラングーン(現ヤンゴン)で羽根を休めていたと言うのに・・・。
軍政下と言う事で各国からの援助も途絶えがちだがミャンマーの人々はそんな中でも生きて行かなくてはならない。そういう時こそNGOの出番!とBHNはミャンマーの医療の要であるヤンゴン総合病院のPBXの現状を聞きその更改事業を計画した。その時の状況はと言うと、内線電話機100台程のうち動いている物はほんの十数台、外線は数回線しかない。

 
当時動いていた沖電気製PBXとオペレータ用応答台

イギリス統治時代に作られたという広い敷地を持つ病院の緊急伝達方法は「メッセンジャーボーイ」だ。せめて内線電話機だけでも復活させれば先生方への連絡時間も短縮され何人かの命を救えるかも知れない。
ましてや現状の交換機は古い日本製である、これこそ我々の使命・・・とこのBHNのプロジェクトは始動し私は更改工事の監督として現地を任される事になった。
足かけ2年に渡り数回、長い時で1ヵ月ほど滞在した。PBX設置工事はNECのタイ人技術者に、線路・宅内工事はミャンマー郵電省に依頼した。

そして、十ヶ月あまりをかけて完工、最新のNEC製ディジタルPBX。内線150台、外線は郵電省の協力もあり一挙に20回線。
1998年の完成&贈呈式には当時の厚生大臣と通信大臣が列席。それ程、待ち望んでいたインフラだったと言えよう。
開通すると、「通信の力」を余すところなく発揮、内線を使って離れたところにある救急棟からドクターの呼出しが簡単にできるようになり、深夜の各病棟間の連絡も迅速&簡単、確実になった。
外線が増えたお蔭で外からの電話が掛かりやすい、これまでは連絡がつかずわざわざ来ていたのだ。病院内からも連絡が入れやすくとても便利になった。
副産物と言うのか地方病院のドクターからヤンゴン病院の専門医への問合わせが簡単になり地方医療のレベル向上にも寄与できたと聞いている。
 


写真左側、赤レンガの建物が病院
完成したNEC製ディジタルPBX

そしてBHNテレコム支援協議会はこの効果を見て、この後の数年間で5ヶ所の病院にPBX等を援助しミャンマーの病院の通信インフラの整備に力を注ぐ事になる。
それから5年が過ぎた春、再度BHNの要請で久々にミャンマーを訪れた。
ミャンマーはこの5年間時間が止っていたのだろうか、ほんの少し新しい建造物が出来ている以外は何も変っていない。(これも経済制裁の効果?)もちろん人々も変ってはいない。
病院で出迎えてくれた院長も懐かしい笑顔で「ミンガラバ(こんにちは)!」と握手を求めて来た。ひとしきり昔話に花を咲かせて交換室に行くとオペレーターのおばちゃんも覚えていてくれて(と言っても彼女らは英語が話せない、私もミンガラバ以外は話せない)笑顔と笑顔の交換で再開を喜んだ。

そしてさらに時は過ぎ2006年、またもミャンマーを訪問した。 今度は娘と一緒。親の影響(?)か東京外語大ビルマ語学科に進学した娘は3年生に上がる前に語学力を試したいと渡航を決意、そこに私がくっついて行ったと言う次第。
8年前を思い出しローカルバスを乗りついでのバガンへの旅。娘は現地の子供たちをつかまえてビルマ語でおしゃべり。現地の言葉で会話が出来るってなんて素敵な事だろう!
もちろん病院にも挨拶。既に院長は替っていたが交換手はまだ数人が残っており今回は娘の通訳で存分に意思の疎通ができ本当に感動した(写真は娘と小さなお坊さんたち)。
「やっぱりいいね」・・・と、娘も共感! ミャンマーとの「縁」を感じながらこの国は今でも私の「もう一度行きたい国」の上位にランクしている。


娘と訪問したザガインの寺院で娘と見習い僧侶の子供たち

後書き: 本稿は2003年 「通信興業新聞」に投稿した原稿に加筆したものです。

略歴 昭和44年4月 大分県国東電報報話局入社
青年海外協力隊参加 昭和62年1次隊 西サモア 宅内電話工事
1996年 NTTインターナショナル(株)出向
2000年8月 NTT西日本(株)退職
JICAシニア海外ボランティア参加 2000年 ヨルダン 電話技術