体当たりのシニア海外ボランティア体験記

石井OB (1999年・タイ派遣)


目 次

はじめに

T 応募とそのきっかけ

U 赴任して分かる現地事情

1        赴任準備

2        赴任先の第一印象

3        先ずは現状把握
4        タイの職業高専

5        如何にして仕事に手を付けるか

V Mangkorn校長と共に

1        意識あわせ

2        試行授業

3        コンピューター実習室

4        民間企業とのジョイント

5        英語教育

W 校長の栄転

1        先への希望

2        新しい校長

3        Chollanaさんの留学

4        よろず屋稼業

X 改めてシニアボランテイアとは

1        ミッション

2        質と量

Y 日本に帰って

1        短期再派遣でアルゼンチンへ

2        アルゼンチン経済危機の背景

3        アルゼンチンITを支える産業基盤

4        サンタフェ州ロサリオ市におけるソフトウエア企業

5        日本・アルゼンチン経済委員会

Z 結び









はじめに
 シニア海外ボランティアの体験記を書くに当り、どのような格好にするかだいぶ迷った。筆者にとって、海外に住みついて仕事をするのは全く初めての経験で、JICAに関わる事もこれが最初である。そこで、同じような立場で、シニア海外ボランティアに関心を寄せている人も少なくないであろうと思い、応募から赴任そして仕事、帰国と、初めから終わりまでを、時系列に沿ってフォローし、シニアボランティアとはどんなものかが、ある程度分かるよう書いてみることにした。また、その中で、感想、意見、エピソードなどをまじえることにした。
今回のタイとアルゼンチンにおける経験を振りかえると、シニアボランティアに課せられた仕事の幅とその奥行きは、とてつもなく広く且つ深い。そして、しがらみから開放されたシニア世代がニュートラルな立場で再度活躍出来る、華やかではないが遣り甲斐溢れる舞台が、そこにある。


T 応募とそのきっかけ

初心にかえる
 40年近いサラリーマン生活に一応のピリオドを打ち、何か心の中にポッカリ風穴が開いたような、そんな気分で居る時、家内がシニア海外ボランティアを紹介した新聞記事を見つけて来た。
これまでの人生を振りかえって見ると、海外に行って勉強するとか、仕事をするのが、一つの夢であった。若い頃には、フルブライトの留学生に憧れを感じた。就職してからも、海外関係の仕事に関心を寄せた時期もあったが、どう云う訳か海外に居を移して仕事をする機会に恵まれる事は無かった。我々が大学を卒業した頃は、アメリカ辺りに行くとなると、それは大変な事であったが、昨今は、海外旅行など日常茶飯事である。折角このような時代に生きるチャンスを与えられた以上、一度は海外に腰を据えて仕事してみなければと思っていた。

また、これまでを振り返えると、さすがに若い頃は、自分ながら良く働いたと云うか、仕事に夢中になれる環境に良くぞ恵まれたと云う時期があった。NHKで、「プロジェクトX」と云う人気番組があるが、その頃は、これを彷彿させるような大変幸運な数年間であった。素晴らしい上司に恵まれ鍛えられた。幾度も壁に突き当たり自分の能力の限界にさいなまれながら、何とかこれを克服し、小躍りすると云った快感を堪能した。このような貴重な体験が、生きる為の精神的エネルギーの源を創ってくれたのであろう。しかし、歳を重ねるにつけ、この水源も補給するより消費が急で、今にも底を尽きそうなけはいである。体力的にも、また精神的にも幾分、柔軟性が残って居る間に、もう一度初心にかえり、一兵卒の身になって、残りの人生のために少しでもエネルギーを蓄えたい、そんな気持ちに駈られた。
 そしていざ応募となると、不安も頭をよぎった。不慣れな土地で病にでも倒れたらどうしたものか。現地語は全く駄目で、英語も取り立てて得意と云う訳ではない、旅行ではなく仕事なのだから、細かいニュアンスなどが上手く伝わるであろうか。

 また、すっかり身についてしまった怠け癖を克服出来るだろうか。こまかな事は秘書や部下に丸投げしてしまう、例の会社人間の悪い癖である。しかし、今度は、何から何まで、全て自分でやらなければならない。
 多くの先達も居る事である。新聞記事を見つけた家内も背中を押す。魅力も十分である。ともかく応募することにした。  

見栄えのしない履歴書
  応募テーマはこれまでに関係して来た情報通信分野に関わるものに決め、早速履歴書の作成に取り掛かった。履歴書は、現役当時によく書いた就任ポスト歴でなく、こう云う仕事をしたのでこんな事が出来る筈である、と云う風に書いてみた。会社人間としては、かなり真面目にやって来た自信はあったが、こんな風に自分を表現してみると、意気込んだ割には、あまりにも自分の能力が見劣りすることに愕然とした。

 ただ、次ぎの二つの経験は、途上国の国造りに対し、何か役に立つのではないかと思った。一つは情報通信に関わる技術屋として、アナログからディジタルへの変革の中に身を置き、ネットワークとソフトウエアの世界を体験したことである。
  現在、猫も杓子もITと云った感じであるが、自分自身の体験から学び理解したITを武器に、何か真っ当なアドバイスやコンサルタントが出来ないものかと思った。    
 もう一つはマネージメントに関する経験である。40年近い勤めの中で、官営(正確には公社制)から民営への移行体験は、ものの見方、考え方に大変な衝撃を受けたが、これは本当に良い勉強になった。少々誇張した言い方をすると、全てが、ひっくり返ったのである。

公共的事業において当初の開発時期は、政府主導による統制的事業運営の方が、効率的で速く成果を出せるものである。しかしながら、成熟期に入ると、経済合理性を最優先にする民営の方が、競争が働き、より安くより良いサービスを提供できる。
  とは云うものの実際に移行となると、単に制度を変えれば済むものではない。企業の体質を根本から変革する必要がある。このためには、莫大なエネルギーの投入と、それによって引き起こされる様々問題を処理しなければならない。このような変革のマネイジメントに従事出来た体験は、途上国、なかんずく中進国の官営事業のあり方に対し、何か有効な助言の材料になるのではないかと思った。

反射神経の衰えを悟った英語のテスト  
  指定された健康診断書、履歴書などの必要書類を付け応募申請を行うと、何がしかのチェックの後、英語のテストと面接の日取りが通知されて来る。この英語のテストが、予想以上に厄介であった。現在は、TOEICで行われているようであるが、当時は、ペーパーテストとディクテーションであった。ペーパーテストの方は問題ないが、書き取りが大変である。手が動かないのである。試験の始めに、試験官から、内容を日本語で書いても点にはなりませんと言われ、何を当たり前の事を、と思ったのであるが、やってみるとテープで流れている内容は判るのだが、ペンがフォロー出来ない、せめて中身だけでも日本語で、と云う気持ちが解かった。  
  反射神経が衰えて来たシニア対象のテストについては、仕事上の現実的必要性等も考慮し、例えば、主張を英文で書かせるなど一工夫して欲しいと思う。

人物評価は面接で
  英語のテストも通過し、面接があった。何故応募したのか、抱負はあるか、健康について自信はあるかなど一通りのチェックがある。 
  これは後で述べるつもりであるが、率直に言って、シニアボランティアも実に様々である。この優れたシステムを、前進、向上させて行くためには、何と言っても人選びが最も重要であろう。この点で面接は重要なチェックポイントである。面接時点では、配属先も概ね決まっている筈なので、仕事の中身などを中心にかなり突っ込んだ質問を行い、可能な限り人物評価には時間を掛けると共にこれからの仕事に対する自覚を促すような面接を行うべきである。


U 赴任して分かる現地事情

1 赴任準備
  合格が決定すると、赴任先が要求している仕事の内容、赴任先での対応者(カウンターパート)、赴任先における一般的な受入れ条件等が簡単に書かれたS1フォームと称するメモと、事前研修のスケジュールが送られて来る。

あれこれ心配無用
  初めての者としては、赴任先がどんな所で、具体的にどのような仕事なのか、持参する参考図書は何を準備したらよいのかなど、気になる事ばかりである。色々関連がありそうなホームページを調べ、大使館にも問い合わせてみたがさっぱり見当がつかない。
  全ては、行ってみてからの事と覚悟をきめた。なお後で述べるが、これが正解で、あれこれ心配は無用であった。

群れない人達
  いよいよ事前研修である。暑いさなか、新宿のワンルームマンションからの通勤は、久方ぶりに学生時代が再来したようなものである。一兵卒になる自覚もあらたにした。
  同期生の殆どは、JICAの青年海外協力隊や専門家経験者か、商社やメーカーの海外駐在経験者などで、海外生活には何の違和感を持って居ない人ばかりのようであった。一部の初挑戦者にとっては、何か場違いと云った感じがしなくもなかった。 
  そこに集まった人達は様々で、良く言えば個性的であるが、長らく会社勤めをして型にはまった生活に慣れた者から見ると、本当に大丈夫かな、と思えるような人も散見された。ただ、皆さんに共通した特徴は、「群れない人達」であった。

パソコン
  研修も終わり出発までの短い期間は、大変気忙しい時間であった。赴任先における作業道具として、新しいパソコンを購入した。ついでに、家内にも一台求め、留守宅との連絡はメールを使い、国際電話料の節約を図ることにした。
  家内共々インターネットプロバイダーに加入し、自分は、赴任先からローミング接続が出来るようにした。多少のパソコン歴はあったが、家内と一緒にパソコン実習となると悪戦苦闘で、時間など幾らあっても足りない有様であった。
  赴任中、パソコンは大変重宝したが、愛機のご機嫌取りにも大分苦労したものである。確かに、パソコンは、現代における欠くことの出来ないリテラシーである。シニア世代においても、パソコンと英語は必要不可欠である事を実感した。

2 赴任先の第一印象 
  そうこうして居る中に、時間は瞬く間に過ぎ、いよいよ赴任となった。課せられた案件は、バンコク市郊外にある情報通信関係の職業高等専門学校、Nawamin Industrial and Community College において、急速に進展する技術革新にフォロー出来るよう、カリキュラムや教授方法について改善のアドバイスを行うことであった。

Nawamin Industrial and Community College
 赴任を前に、この学校についてタイ国大使館に問い合わせてみた。大使館では、本国にも問い合わせてくれたようであったが、結局何も分からなかった。ぶっつけ本番の覚悟を決め着いてみると、そこは、バンコク市内ではあるがほとんど郊外と云った感じで、水田の中にコンクリート剥き出しの校舎が数棟建っていた。
 開校は1994年で、国王プロジェクトとして教育省職業教育局の配下に、RAM王朝Nawamintrachutit王の名前を冠した産業社会教育専門学校として設立された比較的新しい学校である。
 情報通信関係の単科Collegeで、専攻は、通信、電子、電気及びコンピュータの四つがある。各専攻の基礎教科は共通で、専門科目が若干異なるが、コース間に大差はあまり感じられない。教程は、3年間の普通課程(Certificate)と、その上に専攻課程(Diploma)があるが、殆どの生徒は専攻課程を含む5年間を履修している。

 授業は、午前、午後、補習の3コースが設定されている。補習コースは、旧来の職業学校の名残で、昼間仕事をしている人達のために設定された夜間コースであるが、最近出来た技術高専は、ほぼ全生徒が中卒の子供ばかりなので、この夜間コースの必要性については疑問がある。これがあるため、教官の勤務は朝8時から夜8時までとなり、極めて長時間に亘る労働負担を強いられているが、教官達は夜間手当てに魅力を感じているようでもある。
  生徒の数は、全部で1,300名程度、内4割ぐらいが女性である。
  教官は、40名ぐらいであるが、内半数が教育省採用の正規教官で、他の半数は、現地採用の臨時教官である。現場は、この臨時教官で事実上支えられているが、この人達は移動が激しく、教育現場は安定した感じとは云い難い。

 初出勤は、通勤の道順のチェック方々、顔出しのつもりで学校に出向いた。ところが、学校の方は、講堂に生徒を集め歓迎会をしつらえていた。何の準備もなく挨拶をさせられたのには大分戸惑ったが、生徒は皆良く躾られ、大変アットホームな雰囲気で迎えてくれた。教官諸氏も皆好感の持てる人達である。その中で校長Mangkorn氏からは、教育に対する並々ならぬ情熱が感じ取れ、大変心強く感じられた。学校の第一印象は極めて好感が持てるものであった。

3 先ずは現状把握

 初めの三ヶ月ぐらいの間に、任期期間中に何をするか、大まかな計画を策定しなければならない。

言葉の壁
  当初は、極力授業を覗き、教官会議に出席し、教官連中、特に校長と時間を見つけては話をするなど現状把握に努めた。
  ここで困った事は、やはり言葉の問題である。中央官庁や大学などに行くと、英語で普通の用事は足せるが、次ぎの段階の高専レベルになると、英語の出来る人は激減する。この学校で、英語でコミュニケーションが出来る人は、3、4人だけであった。
  筆者にとって大変幸いなことに、校長のMangkorn氏が、彼の秘書であるChollanaさんを、筆者のアシスタントとして兼務させるように配慮してくれたことである。彼女については、後で触れようと思うが、勘の鋭い才媛で、通訳をはじめ、万事要領よくサポートしてくれた。肝心なところで、コミュニケーションに齟齬を来たさずに済んだのは、ひとえに彼女のお蔭である。

 現状を調べて行くと、色々な疑問に遭遇する。そこで、職業高専の歴史などについても調べてみた。すると、タイにおける職業高専の全体像と現在直面している問題などが見えて来た。現代にマッチした技術高専にするためには、カリキュラムや教え方を少々手直しする程度で済むものではないようである。大変なことではあるが、基本的な所からベクトルの方向を変えるぐらいの気持ちで取り組む必要があるものと悟った。


4 タイの職業高専

自営業のための訓練
  タイにおける職業教育の発祥は、手に職をつけるための訓練に端を発したものと考えられる。元来が地域に根付いた教育訓練活動で、地域の職人達が、地元の若者達の自立を助けるための訓練を行うとか、更に高度の技能を身に付けようとする意欲的な人達を熟練工に育てると云ったような事が、そもそもの発端である。地方のポリテクニカルカレッジと称する職業高専を訪ねると、地元の寄付による古い校舎が未だに残って居り、往時の面影をしのぶことが出来る。

 今から約20年前からタイ政府は、当時好調であった経済状況を背景に職業教育の近代化と全国的普及を図るべく、産業社会職業高専と銘打った職業教育機関を1県1校設置の原則の基に大量開校して来た。筆者が赴任した学校もその一つである。しかしながら、その後における経済バブルの破綻と、加えて、昨今の急激な技術の高度化、多様化、更にこれに伴う産業活動の変革は、比較的新しいこれら職業高専の環境条件に激変をもたらした。
  職業高専は、現在、凡そ以下のような課題を抱えている。

直面する課題
(1)ソフト化する技術への対応
  職業高専の発祥経緯については、先に触れたが、その主たる目的は、自営業の育成と考えられる。技術系の場合で云うと、自動車やテレビの修理と云ったハードウエアの修理や工事技術を習得させることによって、自動車整備修理業であるとか、町の電気屋と云った職業への道を開く訳である。

 ところが、昨今の技術革新により、自動車やテレビなどの装置や機器類は、LSI化、パッケージ化が進み、マイクロコンピューターの普及でこれらの機能はソフトウエアコード化されている。このため、従来のハードウエアイメージの修理は考えにくくなって来ている。実際、修理業は、メーカーに直結したディーラーに移行しているのが現実である。
  このような技術の本質的トレンドを考えると、現行教程をかなり抜本的に変える必要がある。

(2)就職の多様化
  昨今の複雑で高度化した技術をふんだんに盛り込んだ装置や機器類は、広範な技術分野に関わりを持つため、その製造は勿論、その修理についても、資本力と組織力のある企業の手によらざるを得ない。
  こう云った現実を考えると、情報工学や機械工学などの技術分野を専攻する高専卒業生は、自営と云うよりは、企業への就職の道を開いてやる必要がある。このためには、学校、企業双方にとってメリットがある相互の連携システムを創り、相互理解と協調の道を模索する必要がある。

(3)教官の問題
  一時代前、テレビや自動車の修理方法をマスターするためには、簡単な基礎理論とある程度の応用技術を習得し、後は自己研鑚など経験を積めばよかった。教官にもこう云ったキャリヤーを持つ人が多かったようである。
  しかしながら、LSIやマイクロコンピューターが詰まった、高度に複雑化した現在の技術を教えるには、この人達には荷が重いと云わざるを得ない。このため、いきおい,大学新卒者を採用するのであるが、彼等には現場経験と教育経験が不足しているため、中々満足出来る授業が出来ない。この辺のところをどう解決するか、これもまた差し迫った問題である。

(4)生徒の問題
  あちこち幾つかの職業高専を訪問して分かった事であるが、職業高専には、大まかに言って、理髪であるとか溶接などと云った比較的単純な技能研修を目的とした短期のコースと、情報通信のような本格的技術研修を目的にした長期コースの2種類がある。   
  短期コースの場合は、生徒自身が自分のスキルアップを図るなどと云った明確な目標を持った年配者が主体になっているため、教室の雰囲気は極めて意欲的である。
  一方、本格的技術研修を目的とした長期コースの方は、中卒の子供達主体である。彼等の大部分は、一般高校に進学出来なかった、所謂セカンドクラスの子供達である。このため、一部に良く出来る生徒もいるが、平均的に学力レベルは低い。どのようにしたら効果的な教育訓練が施せるか、頭を悩ますところである。放っておくと、全体のレベルがダウンするばかりである。
  国全体の産業、技術のレベルアップを担う中堅層を、職業高専が育成しなければならないとするなら、国は、入学の仕組みから抜本的な対策を講ずる必要がある。

(5)逼迫する予算
  タイは経済危機から立ち直りつつあるが、財政は極めて逼迫している。現在進められている教育改革もこれに対する対応策の一環であって、職業高専の場合は、国から出来るだけ切り離し、資金を地方行政と地元からの寄付で賄わせようとしている。
  これを実行するとなると、校長に政治的手腕が求められるが、このような能力を持つ人材は極めて限られている。


5 如何にして仕事に手を付けるか

経営コンサルタント

  シニアボランティアの仕事を強いて大別すると、技能伝授的なものとマネージメントをサポ

ートするタイプに分けられる。筆者のケースは、依頼側本来の要請はカリキュラムの改良である

とか、教授方法の改善と云った技能伝授的要素が主であったが、前項で述べたような問題に直面

すると、小手先で済ませる訳には行かない。難しいことではあるが、学校運営、即ち、マネージ

メントの面から考えねばならぬと思った。

 現役当時、民営化と云う経営の変革を実行する過程で、マッキンゼーやアンダーセン社の経営コンサルタントの世話になった経験を思い起こした。今度は、こちらが逆に経営コンサルタントになればよい訳である。既に、学校を取り巻く環境条件については、大まかな問題把握が出来たので、これを基に次のような手順で仕事の段取りを計画してみることにした。

  A.実際授業を持つ形で現場に入り、現状の問題を肌で感じ取る。
   B.把握した問題に関しては、組織全体の責任者である校長と十分議論を重ね、問題意識を共  有する。
   C.これら問題点の中で、重要で且つ現場で対応出来るものを選び、具体策を作り、ローカル  的に試行する。
   D.なお、実行は校長の指揮の基で、出来る限り教官等現地の職員が当る。
   E.ここで達成したローカル的成果は、何らかの形で全国展開が図られるよう、常に配意する。

カウンターパート
  このようなマネージメントの問題を取り扱う場合、組織の中で最高の執行権限を持つ人物、校長と常に連携を保てるような形を作り、お互いに十分な信頼関係を構築することが極めて大切である。
  技術協力などで派遣される場合、派遣された者と、受入れ側の接点となるパートナーが必要になるが、これをカウンターパートと呼んでいる。筆者の場合は、通信コースの科長であるBoorom氏がカウンターパート指定されていた。彼は苦学して大学を卒業後、チュラロンコン大学で技術関係職員として働きながら職業高専の教員資格を取り、幾つかの職業高専の教官を経て現在のポストに就いた。まだ、30代であるが、勘の良い英語も解かる好青年である。
  技能伝授型の場合であれば、コース科長のBoorom氏が適任であるが、学校運営の基本を変えようとなると、コース科長ではとても無理で、相手としては校長しかない。筆者は、細かい事務的な問題は全てBoorom氏と相談し、仕事自体に関しては、校長と直接実行することにした。この点については、両氏共快く了解してくれた。

シニアボランティアのシニアボランティアたる所以
  赴任準備のところでS1フォームについて触れたが、これは、シニアボランティアに要請する仕事のスペックである。これを読むと、依頼側の気持ちはそれと無く分かるのであるが、仕事の具体的中身となると今一つはっきりしない。このため、満足な準備も出来ず、欲求不満のようなものを感じながらの赴任となる。しかしながら、一旦現地に赴任してみると、なぜそうなのかがよく理解出来る。
  頼む側からすると、何か大きな問題がある事は分かっているのであるが、それが具体的に何であるのか、どうしたら良いのかが分からないから頼んで来るのである。シニアボランティアは、亀の甲より歳の功、長年の経験をフルに生かし、こう云った言わばカオスに近い状況の中から、問題を抽出、整理し、これらに対する具体的な解決方法を見出さなくてはならない。これは、正に経営コンサルタントの仕事なのである。
  また、S1フォームに書かれている事が、かなり明確で具体的である場合においても、その事項だけに捕らわれていると、重箱の隅を突ついて終わる可能性が無しとしない。よくよく検討してみると、それは目先の事で、それ以前にやるべき大切な事があるかもしれない。シニアボランティアの存在価値はこの辺りを見逃さない所ではなかろうか。

シニアボランティアは、このように気付いた事柄に関して意見やアドバイスを述べることは出来るが、執行する権限は持たない。新たに何かを実施するためには、執行権のあるトップを、その気にさせ、やらせ、成果は彼のものとし、そこに根付かせ成長させる必要がある。シニアボランティアの経験、知識、技能等を十二分に活用するためには、カウンターパートは、赴任先組織の長が望ましいと思う所以はここにある。



V Mangkorn校長と共に

1 意識合わせ
  人はみな同じ
  校長のMangkorn氏は、未だ40代後半の若手で、タイ人には珍しいやる気満々のアグレッシブな人であった。キングモンクット工科大学出身の技術屋で、熱心な教育家である。彼は、1,000名以上居る殆どの生徒の名前を諳んじており、何か問題のある学生については、家庭環境まで熟知していた。こう云う人と一緒に仕事が出来るとは、大変ラッキーであると思った。
  毎朝、校長とコミュニケーションを持つようにするため、米国在住の友人に頼み、ロイターのインターネットニュースを毎日送って貰い、その中から技術動向を中心にニュースを選択して、これを話の種にした。最初はお互いに遠慮もあったが、慣れてくると、公私に亘る話題に広がり、何時の間にか気の置けない付き合いが出来るようになった。人間は、言葉が違い、肌の色が異なり、生活習慣が変わっていても、本質はみな同じとつくづく思った。
  仕事の方は相談の結果、ターゲットを次ぎの2点に絞り、Nawamin College改革のための具体案を考えることにした。

A.技術の潮流を教える
  カリキュラムをチェックすると、1世代前の電話をベースにした電気通信技術が中心である。校内には、パソコンも数台あったが、専らワープロ用で、インターネット接続等は念頭に無いようであった。

人間相互の直接音声による通信は、携帯電話を含む電話網の完成によって一時代を画した。今や情報通信の対象は、コンピューターを介した人間相互の通信、コンピューターと人間間の通信、コンピューター相互の通信にまで範囲を広げ、コンピューターの介在を特徴とするインターネットとこれをサポートする様々な応用技術がこれらをフォローしている。

 そこで、筆者が先ず教官と専攻課程(Diploma)の生徒を対象に、「インターネット概論」を講義し、更に専攻課程の生徒には、インターネットのキーテクノロジーであるTCP/IP技術(インターネットのプロトコル)を輪講形式で履修させてみることにした。また、これに並行して、インターネット接続が体験出来るコンピュータ実習室を造ることにした。

B.一流企業に就職させる

 生徒の就職状況を調べると、地元の中小企業などを中心に校長の献身的売り込みのお蔭で、毎年9割方の卒業生が職を得ていた。

 職業高専の先々を考えると、国内の情報通信に関連する主要企業への就職のルートを築く必要がある。このため、学校側、企業側がお互いにメリットが享受出きるOn the Job Trainingのようなものを検討することにした。

 また、急速に進む国際化の流れを考えると、特に大きな会社への就職の場合、英語の力を付けさせなければならない。英語に関しては、学校全体が余りにもお粗末である。これについても何か手を打たねばならない。

よろず相談窓口

 とも角、これから皆の中に入って行動を起こす訳である。現地のカルチャーに漬かり込み、なるべく自然なコミュニケーションが出来るような状況を作らなくてはならない。更に、これからやって行く施策に対する反応、評判をストレートに聞き出せるようして置く必要もある。こんな思いのもと、現地語は不案内を承知の上で、教官、生徒全員を対象によろず相談窓口を開くことにした。



2 試行授業

名通訳

 インターネットに関しては、色々な社会科学的説明や技術的な解説書が、山ほど出ているが、出来る限り受け売りを避け、インターネットの必然性、技術的な特徴、インターネットの光と陰と云った点について、極力筆者自身の解釈で話をした。

講義は英語で行い、Chollanaさんに通訳を頼んだ。最初ほんの少しの間、呼吸が合わなかったが直ぐに慣れた。彼女は、全体の雰囲気を察し、或る時は丁寧に、皆見当がついていると観ると訳しもせず、それは絶妙な通訳であった。そして、更に感心したことは、2回目の講義以降、専門用語を完璧に通訳してくれた。また、彼女はこの経験を通し、情報技術(IT)とそれが社会に与えるインパクトについて強い関心を覚えたようであった。

ここで講義内容の詳細を述べる積もりはないが、インターネットに象徴されるIT技術と、開発途上国、特にタイのような中進国との関わりについて考えてみたい。実は、この辺りが、インターネットの講義にこだわった理由の一つである。

中進国と工業化

 従来、中進国の工業化は、通常ハードウエアに関連する製造業からスタートしている。日本の場合もそうであった。半世紀以上の年月をかけ、材料、部品の開発から複雑なシステムの設計、製造、品質管理に至るトータルな物造り技術の体系を確立した。我国の場合は、戦後の復興という差し迫った環境条件と、着実に積み重ねが出来る国民性が相乗的に働いて好結果を招いたものと思うが、こう云ったケースは稀で大抵の場合は、先進諸国の下請け工場化程度に止まっているのが現実である。

 ところで、ソフトウエア開発をターゲットに工業化を目指したインドの場合は、どうであろう。20年足らずの期間で、彼等はソフト大国に仲間入りを果した。

 ソフトとハードの違いは、一口で云うと、ソフトは、全てが人の作ったもので、全体が人工的論理で構成され、支配されている。しかしながら、ハードの方は、神が創造した物質が、全てのベースになるため、人知の及ばないところが多い。このため、ハード開発には、物理、化学と云った基礎科学から匠の技と言われる経験的技能に至る極めて幅広い技術的能力が必要となる。一方、ソフト開発の場合は、論理的思考能力さえあれば、何でも出来る可能性がある。このため設備投資も少なくて済む。また、説明困難な匠の技などは一切ない、新しい技法は、全て論理的に説明出来るので、基礎さえ出来ておれば誰にでも理解出来、利用可能である。こう云った点から、ソフト産業は、後発者優位の可能性をも秘めている。中進国は、より一層ソフトウエアに関心を向けるべきなのである。

21世紀は、コンピューターの世紀である。20世紀中に幼年期をすませたコンピューターはお互いに手を結びネットワークを構成して、世の中に新しいコンピューターカルチャーを創ろうとしている。その始まりがインターネットである。言うまでも無いが、そこにおける主役はソフトウエアに他ならない。ネットワークを動かすのも、また、ネットワークを利活用するのもソフトウエアであり、新しい文化はソフトウエアによって創造される。

講義の反応

 以上のような想いを胸に、Chollanaさんのアシストによる講義結果は、概ね満足出来るものであった。校長が、開講時に趣旨を丁寧に話してくれた。特に教官クラスは、熱心に聞いてくれ、質問も的を射たものが多かった。

 生徒の方は、一苦労であった。人数の多いクラスでは、静かにしているのは最初の30分ぐらいで、ざわつき出す。初めは、私語を行っている連中に質問をして牽制など注意もしたが効果はなかった。途中から、熱心な生徒を前の方に集め、彼等中心に授業を行った。

 このグループには、宿題も出した。数日で出来るだろうと思ったが、余裕をみて一週間の時間を与えた。次ぎの週、期待して授業に出ると、宿題を提出する者は皆無である。どうしたのかと聞くと、今やっているから、来週は大丈夫と言う。しかし次の週も、また次の週も同じ事の繰返し、一ヶ月で諦めた。すると三ヶ月近く経ってから、宿題が出来あがってプレゼンティションをするから来てくれと言ってきた。こちらは、何を出したかも忘れてしまったが、出て行ってみると、オーバーヘッドプロジェクターを使った解答は、大変良く出来ていた。思わず嬉しくなった。三ヶ月は長過ぎたが、素晴らしい解答だったと大いに褒めた。

 この国では、こんな風にとてつもなく待たされることをよく経験する。時間の物差しが違うと言ってしまえばそれまでだが、「貧困はあっても、飢餓は無い」と云うお国柄、あくせくする必要が全く無いのであろう。彼等を信じて待つ、これがこの国で仕事をして行く上で、ポイントの一つかも知れないと思った。

 輪講形式の授業の方は、上手く行かなかった。実用的なテキストを選び、若い良く出来る教官をチューターにして、手を尽くしたのであるが、いざ始めてみると、先ず英語の読解で難航し、内容の理解も捗々しく行かなかった。曲りなりも一通りは終えたが、職業高専の現レベルでは、輪講はとても無理のようである。今後は、何か別の方法を考えなくてはならない。

 授業の試行は、改めて職業高専の抱える問題点を再確認するかたちになったが、大変良く出来る生徒や、熱心な若い教官が居る事も分かった。能力別クラスの導入や優秀な教官を巻き込んだ課外授業の設定など色々工夫すると、面白い結果が期待出来るのではないかと思った。また、教官に対する授業は、特に若い教官に大分刺激を与えたようである。数人の教官が、IT関係の勉学をするため留学をしたいと言って、早速相談に訪れた。

現在3名の俊英達がアメリカや国内のキングモンクット工科大学のマスターコースでIT関係の勉強を始めている。

 以上のような経緯もあって、結局、校長が持っている虎の子の予算100万バーツを頼りに、自前で出来る範囲の中で実習室を作ることにした。 大まかな設計書を作り、これを基に校長が業者を募り見積もりを要請した。4社の応募があったが、各社から色々意見を聴き、校長が学校関係に実績のあるところに決めた。その後、三ヶ月間ぐらい掛け、詳細な設計を完了した。この間業者には、大分無理も聞いて貰った。

 そして、いざ工事開始の段階で意外な問題に遭遇した。電話会社が、回線増設は不可能であると言ってきた。バンコク市内と云っても、この辺りの郊外になると、インフラが貧弱で空き回線が無く、急にケーブルの増設など不可能だと言うのである。申し込んでも、なかなかつかない30年ぐらい前の日本の電話事情を思い起こした。

 仕方が無いので、取り敢えずパソコンだけを搬入して貰い、先にコンピューター教室を整備し、回線増設は催促を続けることにした。回線開通の方は、色々つてを求めて手を尽くしたが捗々しくなく、任期中の完成は無理かなと諦め掛けていたところ、任期残り半年の時点で漸く回線が繋がり、何とか赴任中に新しい実習環境への第一歩を踏み出すことが出来た。筆者帰国時には、生徒の授業だけでなく、近隣高専の教官訓練などで教室はフル稼働になった。

開通の経緯を調べてみると、先に述べた宿題と同じで、関係する人達は皆それなりに努力してくれたのであるが、時間の物差しの違いで、我々には如何にもまだるっこく感じられたのである。


3 コンピューター実習室

草の根無償援助

 コンピューター実習室作りについては、校長が大変乗り気になった。授業で話したインターネットを実際体験させるだけでなく、出来れば校内LAN(Local Area Network)を造り、図書館の検索管理ぐらいまでやってみたいと言い出した。しかし、先立つものが無い。

 外務省の草の根無償援助が受けられないものかと考えた。早速、大使館の担当官に当ってみた。担当官の話では、元来、貧困層を対象にした援助なので難しいが、前例等を調べ解答してくれることになった。期待して待ったが、結局、職業高専は貧困層に当らないと云うことで却下された。貧困層の救済、エリート層に対する支援、これらは大変結構なことである。しかし、国を支え、国の基盤となるその国の中堅層に対する支援についても良く考えて見る必要がある。我々が戦後の復興期にアメリカから受けた援助を反芻する時、中堅層の心の底に残る援助が幅広い精神的な親米効果を高め、その後如何に大きな成果を収めて来たかを考えさせられるのである。


完成までのあれこれ

 以上のような経緯もあって、結局、校長が持っている虎の子の予算100万バーツを頼りに、自前で出来る範囲の中で実習室を作ることにした。 大まかな設計書を作り、これを基に校長が業者を募り見積もりを要請した。4社の応募があったが、各社から色々意見を聴き、校長が学校関係に実績のあるところに決めた。その後、三ヶ月間ぐらい掛け、詳細な設計を完了した。この間業者には、大分無理も聞いて貰った。

 そして、いざ工事開始の段階で意外な問題に遭遇した。電話会社が、回線増設は不可能であると言ってきた。バンコク市内と云っても、この辺りの郊外になると、インフラが貧弱で空き回線が無く、急にケーブルの増設など不可能だと言うのである。申し込んでも、なかなかつかない30年ぐらい前の日本の電話事情を思い起こした。

 仕方が無いので、取り敢えずパソコンだけを搬入して貰い、先にコンピューター教室を整備し、回線増設は催促を続けることにした。回線開通の方は、色々つてを求めて手を尽くしたが捗々しくなく、任期中の完成は無理かなと諦め掛けていたところ、任期残り半年の時点で漸く回線が繋がり、何とか赴任中に新しい実習環境への第一歩を踏み出すことが出来た。筆者帰国時には、生徒の授業だけでなく、近隣高専の教官訓練などで教室はフル稼働になった。

開通の経緯を調べてみると、先に述べた宿題と同じで、関係する人達は皆それなりに努力してくれたのであるが、時間の物差しの違いで、我々には如何にもまだるっこく感じられたのである。




4 民間企業とのジョイント

DVT Dual Vocational Training
 タイの教育省は、On the Job Trainingの一種で、民間企業に教育訓練を委託するDVT(Dual Vocational Training)と称する職業訓練システムの開発をすすめている。これに関して、日本企業では、トヨタ、ホンダが積極的な協力を行っている。トヨタの場合は、系列ディーラーのために作った教育訓練センターに職業高専生を受入れ、板金、塗装などの実習訓練を無償で引き受けている。

 現在、この訓練システムは開発途上にあり、一部の熱心な学校と、関心を持つ企業がお互いに話し合ってケースバイケースで試行的に実施しているのが実情である。政府も実施企業に対し、税制面等で優遇するなどと云ったことも検討しているようであるが、未だ実施には至っていない。筆者等もこのシステムを積極的に利用することにした。校長は、極めて積極的に動いてくれ、タイ第一の民間電話会社、TelecomASIA社と基本的合意を取り付けてくれた。同社は、元教育省次官を教育担当顧問に迎えるなど、教育訓練に熱心で、訓練用設備、教官等訓練環境は、非常に良く整備されている。教育担当の責任者に会い色々話をしてみると、技術的経験が豊かで、技術革新の動向についても的確に把握しており、こちらの要望も積極的に受け入れてくれた。

 実際に実行してみると、経費負担の問題や委託先における生徒の管理の問題など検討し解決すべき事項も多いが、メリットも大いにあることがお互いに実感出来た。学校側から見たメリットと企業側から見たメリットを整理すると凡そ次ぎのようになる。



学校側から見たメリット

A. 企業の教育訓練施設には、技術的に最先端の実働機器が設置されているので、自ずと最新の生きた技術に触れることが出来る。また、教官陣に優秀な技術者を当てているので、先の輪講でうまく行かなかったICP/IPの授業なども、企業側の教官による講義形式のコース開設で解決出来る。
 B. 企業内研修の仕組みの下で生徒は教育訓練を受けるので、企業内における躾や生活ルールな どを強いられるため、卒業前に世の中の空気をある程度勉強出来る。
 C. <![endif]>生徒を企業に売り込むチャンスになる。



企業側のメリット

A. 企業イメージのPRと社会貢献が出来る。

B. 優秀な生徒を、選り取りで就職勧誘出来る。

 実績は未だ十分とは云えぬが、新しい生きた技術に接した時の生徒の目の輝きを目の当たりにしたり、就職内定を得た生徒の喜ぶ様子などを見ると、つくづく良かったな、と思ったものである。

現在、在タイ日本企業の殆どは、不況の所為もあってか、DVTに対し極めて消極的である。このような活動を上手に行うと、タイの若者達の心に日本と日本企業に対する自然な近親感を植え付け、社会貢献と堅実なビジネスの拡大に繋がって行くであろう。日本政府としても、技術援助の一環としてサポート出来るよう工夫してみる価値が十分あるのではないかと思う。



5 英語教育

ネイティブスピーカー

 この国で専門学校ぐらいのレベルになると、英語が殆ど通じ無いことは前に述べた。日本の状況を考えるとあまり威張った事は言えないが、英語に不自由しない近隣の中進諸国フィリピン、シンガポール、マレーシアなどと伍して行くためには、タイにとって英語教育は重要な課題である。
 先ずは、生徒に英語に対する興味を持たせようと云うことになり、ネイティブスピーカーを臨時教師として雇ってみることにした。思惑通り、生徒は見慣れぬ外国人の陽気な授業に大変興味を覚えたようであった。しかしながらこちらの決まりでは、臨時教官の、特に昼間の手当ては安く、外人教官は残念ながら長続き出来なかった。

 何とか自前で改善を図ることにし、当校随一の英語力を持つ校長秘書のChollanaさんに、英語教官を兼務して貰うことにした。彼女は快く引き受けてくれ、自分の経験を基に、演習の多いケンブリッジ大学出版のテキストを利用した授業を行うなど色々工夫を重ねてくれた。毎日、生徒の解答を自宅に持ち帰りチェックするなど授業も極めて精力的であった。この甲斐あってか、半年も過ぎる頃になると、生徒の方も熱が入りだし、教官室にドリルノートを取りに来ては、筆者らに英語で挨拶を行ったり、簡単な質問をするようになって来た。また、このようこともあった。卒業年次の生徒が就職試験を受けたところ、技術問題が全て英語で出題された。この生徒は英語が分からないため、全く解答が出来なかったのである。このような事件も手伝い、校内全体に英語の必要性が浸透して来た。

 彼女の努力も報われ、先の展望も開けて来たかにみえた。しかし、事情は後で述べるが、Chollanaさんは、これから間もなくして米国留学に旅立つことになり、後が続かなくなってしまったのである。


爪痕を残す

 あれこれ、やってみるのであるが、周りの状況が色々と変化する中で、これを根付かせ、成長させることは極めて難しい。やった事全てが無意味になることも思えないが、何か手を打っておかないと、瞬く間に全てが風化してしまうのではないか、という思いに駈られる。何とかしっかりした爪痕を残したいと思った。

よろず相談

 よろず相談のような形で皆の中に溶け込むやり方は、吾ながら旨くいった。授業に関する話を切っ掛けに、学校内における諸々の事情からタイ社会の風習などあらゆる情報が入って来た。

 また、こうした話の中から、新しい仕事に繋がるヒントも得られた。やはり、常に現場に生のパイプを持つことは、何をやるにも大切なことなのである。



W 校長の栄転


1 先への希望

ものは試し

 Mangkorn校長との仕事は、人種の違い、言葉の壁、風習の違いなどを超え、実に楽しいものであった。初めての外国生活で、この様なやる気のある何時も青年の志を失わない人にめぐり合った幸運を神に感謝する思いであった。彼が、もし本省の然るべきポストへ栄転することが出来れば、そのポストを活用して、今までこの学校でやって来た経験を生かし、その成果を全国的に展開してくれるであろう。そうなれば、筆者にとっても、何とか爪痕が残せることにもなる。

 ある時期から上位部局に当る職業教育局の幹部が出席する会議や会合には、出きる限り出席し、当校で実施している施策と、それに対する校長の熱心な活動と成果について紹介した。職業教育局長には、来校してもらい現場をみてもらうこともした。

 そうこうしている中、ある会合で、校長の異動先として職業教育局産業教育部長でどうか、との話が出た。これは、全国の職業高専を統括するポストである、正に願ったり叶ったりである。早速、それとなく校長に決意を促すと、これまでの人事の慣例では、いきなりは無理であると、素っ気無いものであった。しかしながら、予定外のスピードで事は運び、筆者の任期半ばで念願のポストに栄転が叶った。Mangkorn校長とは二年間任期いっぱい一緒のつもりでやって来て、何か淋しい気もしないでは無かったが、多少の恩返しが出来た気分と、今まで仕事が何とか先に繋がった思いで大変嬉しくもあった。校長も大いに喜んでくれた。内示を受けた時は、真っ先に知らせてくれた。

 新しいポストにおける彼の仕事振りは、期待した通りであった。新技術を取り入れたカリキュラムの改善、DVTの全国展開、若手教官の育成など、就任早々、矢継ぎ早に手を打ち出した。この間、筆者もよく呼び出され、手伝いをさせられた。これも楽しい思い出である。



2 新しい校長


トップが変われば

 新しく来た校長Warin氏は、タイ人特有の人の良さは持っているが、Mangkorn氏に比べると歳も上で、極めて保守的な人であった。このため、色々手掛けて来た施策についても慎重で、成るべくなら新しいことには手を付けないと云うスタンスである。

 教職員への対しても、ポスト、身分に従った接し方をとり、教官会議も二様になった。ある日、教官会議と云うのにChollanaさんが出席しないので、事情を聞いてみると、正規教官と臨時教官を分けて別々に会議を行うようになり、今日は正規教官会議なので出席しない、と云うことであった。正規教官と臨時教官の2種類がある事は知っていたが、Chollanaさんが臨時教官であるとは、実はその時まで気がつかなかった。

 前のMangkorn氏は、能力とやる気を至上主義とする人で、正規、臨時に関係なく、出来る人を重用していた。このため、臨時教官組でも正規教官並以上に活躍の場を与えられていた人達はショックを受け、大分落ち込む者も出た。Chollanaさんも、その中の一人であった。


3 Chollanaさんの留学


旅立ち

 Chollanaさんは、芯のしっかりした、大変聡明な女性である。東北タイ(イサーン)の出身で、お父さんは小学校の先生と言っていた。子供の頃から良く出来たようで、高校は、この地方の名門コンケーン大学付属を卒業し、大学は、チュラロンコンに次ぐ名門タマサート大学で社会学を修めた。かなりの実力を持ちながら、強力なコネも無かったか、昨今の厳しい就職難の中、現地採用で当校の校長秘書に採用されたようである。

 Mangkorn氏は、彼女の能力を高く買い、秘書の仕事だけに捕らわれず色々な仕事を与えていた。筆者のアシスタントもやってくれた。彼女はこうした仕事を十二分にこなし、それを誇りにもしていた。彼女は、筆者のインターネット概論の通訳を行う過程で、情報通信(IT)に頗る興味を抱いたようである。講義が一段落した頃、ITに関して少し広い角度から勉強してみたいと思うので留学をしてみたいのであるが、日本、アメリカ何れがよいであろうか、と云う相談を受けた。彼女の語学力と、ITに関するあらゆる面での先進性を考え、アメリカを勧めたが、お互い忙しさに紛れその侭になっていた。

 新校長は、彼女を秘書からはずし、兼担していた英語教官一本にしてしまった。かなりのショックであったようで、暫く塞ぎ込む日が続いた。Mangkorn氏とも連絡をとり、転勤なども探ってみたが、中々旨い話はない。留学の件を持ち出してみた。話してみると、筆者が不自由になるのではないかと、逆に心配してくれたが、自分自身の大事な問題であるので、両親とよく相談して決断するよう勧めた。それから二週間程して、アメリカ留学を決めた。彼女の友人の留学先をターゲットに、メールによる必要書類の取り寄せ、細かい事項の問い合わせ、申し込み、学生ビサの取得など、かれこれ四ヶ月ぐらいがアットいう間にすぎた。一緒に手伝っていると、希望と不安が交錯する心境が伝わり、こちらも遣る瀬無い気分になったものである。

 出発は、筆者の一時帰国中に重なり、ドライな別れになった。訪米直後は、毎日のようにメールが来た。そのうち、アルバイトも見つかり、メールも週に一回程度になり、アメリカ暮らしも慣れて来たようである。現在では、月に一度、封書が届く。英語も随分と達者になった。何とか、所期の目的を達して欲しいと心から願っている。



4 よろず屋稼業

良い意味での図々しさ

 新校長の筆者への対応は、けっして粗末にすると云う訳ではないが、言わば神棚に飾られるような形になった。それに、校長は英語が不得手のため、気軽に話しが出来づらくなり、以前に比べるとどうしても疎遠になった。

 世の中は、良く出来たものと云うか、今度は若い教官達が留学の問題や授業内容に関する細かい質問など様々な相談事を持ちかけて来た。中でも若手では最右翼のSurapong君の質問には閉口した。筆者が学生時代にどうも腑に落ちなかった問題を知っていて、それを狙っているかのように質問して来るのである。実は、筆者もその点はよく解からなかったと白状すると、それでは、一緒に考え、答を競争しようと言うのである。年甲斐も無く負けん気を出し、寝不足になったこともあった。Chollanaさん、Surapong君、本当に優秀で気分の良い、先の楽しみな若者が居る。Surapong君には、良く出きる意欲のある生徒のみを集め、数学からスタートしてコンピュータープログラミングを勉強させる課外の補習コースを作って貰った。

 たった2年間と云う短い期間であるが、前半と後半では大分様子が変わった。赴任当初筆者なりに建てたテーマ「Nawamin Collegeにおける教育の方向を、現代技術のトレンドに合わせる」については終始一貫したが、仕事の中身、やり方は臨機応変に対処した。

どのような仕事でも不測の事態はつきものであるが、シニアボランティアの場合は、仕事の内容、期間、経費などに関し確たる契約を相手側と結んでいる訳ではないのであるから、情況の変化に応じてフレキシブルに対処することは、むしろ当然なのであろう。

シニアボランティアの仕事は、与えられたシチュエーションによって実にバラェティーに富むものである。これは、非常に面白いところであるが、同時に大変なことでもある。シニアボランティアは、相手が何を必要としているのか、それに対し自分は、現実的にどう応えられるかを常にわきまえることが大事であるが、環境変化に動ぜず柔軟に対処出きる良い意味での図々しさが必要である。



古き良き時代

 Nawamin Collegeの二年間を振りかえると、短いような、長いような、嘗て味わったことのない貴重な時間であった。タイ人だけの世界に独りで入り込み、何かしようというのであるから、言葉の問題を始めとし、生活習慣の違いなど毎日が平坦な道程ばかりではない。何か問題が起これば、頼りになるのは自分独りである。等身大の実力というものを、今更ながら思い知らされることもあったが、何処であろうと、何であろうと,覚悟を決めれば、最後は何とかなるということも再確認出来た。

 それにしても、周囲を取り巻く純朴な善意に恵まれた清々しい二年間であった。最後に学校と教育省で催してくれた送別会は、何とも言えぬ心に沁みるものであった。大分以前になるが現役時代、地方勤務の終わりに経験した送別会を、思わず彷彿した。この国には、日本の古き良き時代の雰囲気が普段着姿のまま残っている。



X 改めてシニアボランティアとは

1 ミッション

専門能力を持ったジェネラリスト

 少し前になるが、NHKでシニアボランティアをテーマにしたTV放送があった。筆者は、赴任中で現地の衛生放送で見た。色々な感想が、日本の知人から寄せられた。中には大分シニカルなものもあった。シニアボランティアは、何をやるのかはっきりしないようなので、大変と言えば大変かもしれないが、見方を変えればノルマも無く気楽な稼業ではないか、と云った類である。確かに技術協力専門家などの場合と異なり、仕事の内容、それを仕上げる期限、必要経費などを明確に定め、契約が取り交わされている訳ではない。一応テーマは与えられるが、凡そ茫洋としているので、仕事の段取りは自分で決めるしかない。

先ずは現地に赴き、広角的な眺望を行いつつ全体像を掴む、次に現場に入り具体的な問題点を抽出する。これらの問題点に対し、重要性、実現性などを考慮し、処理の優先順位を付ける。問題処理は、出来るものは自分達で進めるが、難しければ、技術協力専門家などを要請する別テーマとしてし立てることも出来る。

 要するに未だ判然としないカオスに近い情況を、専門の知識と経験をフルに生かし、綜合的に判断し専門的に整理する事が、シニアボランティアの基本的任務ではないかと思う。正に、ここがシニアボランティア事業の一つの大きな特徴であり、且つセールスポイントである。従って、シニアボランティアの理想的人物像は、専門的能力を持ったジェネラリストと云ったところであろうか。



2 質と量

悪貨は良貨を駆逐する

 云うまでも無いが、国際的なボランティア活動を行うに当って大切なことは、求められたことを、責任を持って実行することである。限られた極く一部の人達による無責任な行動などによって、シニアボランティア活動の評価を落し、延いては、国際的に日本のボランティア活動の評判を下げるようなことになってはならない。

 また、この協力と援助の世界に入ってみると、俗に言う、協力擦れ、援助擦れと云ったものがあることを感じる。協力援助を受ける側では、物的援助やカウンターパートの日本出張などと云った供与を当然のことのように求める。そして、協力援助をする側は、何とかこれらを実現してご機嫌を取り、点数稼ぎをしようとする。結果、何とか擦れと云われる悪弊が残る。

 景気の停滞とリストラに伴う人余り、元気一杯な高齢者の増加などシニアボランティアに対する給源にはこと欠かない。ある意味で、この事業にとってチャンスかもしれないが、高齢化社会をリードする、この優れたシニアボランティア事業の健全な発展のためにも、事業の拡張に伴うボランティアの増員に当っては、悪化が良貨を駆逐するようなことの無いよう万全を期すべきであろう。



Y 日本に帰って

1 短期再派遣でアルゼンチンへ

グローバル化の中で

 二年間という僅かな期間であるが、初めて外に出て色々物事を反芻すると、従来見えなかった側面があることに気がつく。IT化の流れにしても、ただ単純に技術的潮流に乗った社会現象ぐらいにしか考えていなかったが、その底流にある意味が、何か解かるような気がする。20世紀は、社会システムの基本である人と物の流れに主眼を置いた交通網中心の効率化に投資の重心が置かれた世紀であったと云える。そして、大方の先進諸国は、このネットワークの整備を概ね完了し、グローバル化と称する世界を一体化するシステムの端緒を開いた。

今世紀のテーマは、このグローバル化をより高度で効果的なものにするため、その質的深化を図ることであろう。これを行うためには、情報流通を高度化、効率化することが必要で、その手段として次ぎは社会システムに対するコンピューターシステムの浸透(コンピューターネットワーク)が重要なテーマとなって来る。IT化はその魁とも云えるものである。


アルゼンチンへ
  前置きが、少々長くなった。10月末に帰国して、漸く日本の生活のペースに戻り年が明けた。すると、思いがけずJICAよりシニア海外ボランティア再派遣プログラムの案内を戴いた。

 シニア海外ボランティア再派遣プログラムは、平成13年度末に初めて試行するプログラムで、元の配属先に短期で再度赴任し、必要なフォローアップ活動を行うプログラムと、一般公募で適格者のない要請案件へ派遣するプログラムの2種類があった。後者には、前回の募集で適格者のなかった要請案件リストが添付され、シニアボランティアが、緊急的に短期間赴任し、具体的な要請内容の背景調査を実施すると共に現地配属先における緊急の課題を確認し、解決方法の検討を行うこととなっていた。

 リストを見て行くと、アルゼンチンにおけるIT産業問題と云う案件に眼が止まった。ここのところ、筆者の頭の隅から離れないテーマの一つである。JICAに問い合わせ内容を調べてみると、アルゼンチン、サンタフェ州において、州政府がIT産業を中心とした先端産業の振興を目的とした産学協同技術産業振興機構をロサリオ市に創設したので、シニアボランティアを招聘し、同機構のスタッフやメンバー企業などに対し指導、アドバイスを行うと云う趣旨のものであった。

早速応募したところ、幸運にも合格し、甚だ慌しい出発となった。30時間を越すエコノミークラスの旅には少々疲れたが、到着してみるとそんなことを言っている暇はなかった。機構幹部との打ち合わせ,機構メンバーである政府機関、大学、企業への訪問と討論、機構メンバー全員に対する最終のプレゼンティションと、一ヶ月分のスケジュールがびっしりと用意されていた。この間、アルゼンチンにおけるIT産業事情も調べなければならない。

日本のTVなどで紹介されているアルゼンチンは経済危機の真っ只中で、失業者の増加などに伴って社会不安も急速に進み、かなり険悪な情況にある、と云うものであった。実際行って見ると、そう云った面もあるにはあるが、かつて世界有数の農業国として繁栄を誇った面影がそこここに感じ取られた。現在は、歴史の波の中で捉えると、かなり深い谷間に沈み込んでいることはたしかであるが、遠からず浮上するポテンシャルは十分持っているものと感じた。

その辺りの事情も含め、以下は前半のタイのレポートとは趣きを変えた、日本から見ると地球のちょうど裏側の国アルゼンチンのIT事情について駆け足のレポートである。

シニアボランティアの仕事の対象は、タイの高専におけるコンサルテーションンのように、一応全てを独りで出来るものから、このアルゼンチンのケースの如く、情況調査、方向付けぐらいは単身で可能であるが、その後については、戦略的に、かなり組織的に対応する必要があるものと、その幅は極めて広い。



2 アルゼンチン経済危機の背景

 アルゼンチンの産業、経済の現状を理解する上で、ここ十年ぐらいの間における政治体制の変遷と、現在の経済危機に至る経済環境の変化について観察して置く必要がある。


フォークランド紛争以後におけるハイパーインフレの出現

 1982年、フォークランド紛争の後、軍事政権は崩壊し、1983年アルフォンシン大統領の下に民生移管されるが、国営企業の民営化が遅れ、ハイパーインフレが起こり、1989年には年率5000%と云う超インフレ状態に陥った。

インフレからの脱却と経済のグローバルスタンダード化

 この1989年、メネム政権が誕生する。メネム大統領は、関税の引き下げと貿易の自由化、国営企業の民営化並びに海外からの投資の自由化など政府による経済規制を軽減し市場経済に委ねると云う経済自由化を実施した

 これは、アメリカが主導するグローバルスタンダードと云われる経済体制に、アルゼンチンがいち早く体制転換を図ったもので、1990年代前半は、年率8%近い経済成長率を謳歌した。

この間、アルゼンチン政府は、通貨ペソの為替変動を抑えるため、ペソの為替相場を1ペソ=1米ドルに固定する政策を採った。これは、海外の投資家、特にアメリカの投資家にとって、米国内企業に対すると同じように、アルゼンチン企業に対しても安心して投資出きる環境を作る事になった。



世界的な通貨危機の発生

 1997年、タイやマレーシアで発生したアジア通貨危機は、ロシアに飛び火した後、アルゼンチンの隣国ブラジルを襲った。ブラジルもアルゼンチン同様、1レアル=1ドル前後の為替相場を維持していたが、為替を固定する方法がぺグ方式であったため、投機筋の攻撃を受け、レアルは大幅な切り下げに追い込まれた。



固定相場制の限界と経済危機の発生

 当初、ペソは無傷で、アルゼンチンの固定制は危機に対し強いかに見えた。アルゼンチンは、ブラジル共に、輸出を振興し、経済発展を目指していたが、ブラジルのレアルが大幅に切り下げられたため、ドル換算したブラジル製品の価格も大幅に下がり、その分アルゼンチン製品が相対的に割高になった。このためアルゼンチンの輸出産業は大打撃を蒙るだけでなく、割安のブラジル製品の流入により、国内産業全般が苦境に追い込まれた。

ブラジルは通貨切り下げ後、経済は立ち直り始めたが、固定制を続けたアルゼンチンは逆に不況が進み、2001年には経済成長率はマイナス11%までに落ち込んだ。

アルゼンチン政府は、経済危機を回避するため、IMFに対し融資を求めたが、IMFは政府に緊縮財政を要請した。緊急財政を実行する政府に反対し、労働団体等がゼネラルストライキ(2001年7月)を敢行したが、これによってアルゼンチンに対する対外投資家の目が厳しくなり、国債の格付けが下がった。政府は、国債の金利を上げ対応を図ったが、これが、更に経済に対し悪影響を与える事になった。



政治不信と経済不振

 2001年12月、政府は国民の銀行引出し額を250ドルに制限した。しかし一方において、外国系金融機関が、大口取引を規制しなかったため、2002年1月に掛け、150億ドルもの資金がアルゼンチン市場から引き上げられてしまった。この間、反政府デモは暴動化し、2001年12月20日、1999年の選挙で誕生したデラルア政権は、責任を取る形でロドリゲス政権に変わった。

ロドリゲスは、前政権が決定した公務員給与と公的年金削減の解除や最低賃金の引き上げを発表し、一方では、外国からの債務に対する利払い停止を宣言した。これらの政策は、経済的難局の直中、国民の政治不信を更に募らせ、たった8日でロドリゲス政権は幕となった。



変動相場制への移行と現状

かくして、2002年1月1日、以前から市場原理導入に反対の立場を取って来たドゥアルテが大統領になり、彼は、ペソの対ドル固定相場を廃止し、変動相場制に移行した。現在、3ペソ=1米ドルである。

 ここ3年間のリセッションにより大統領のオプションは無くなり、財政的にも、GDPの半分に当る1280憶ドルに上る外国起債の国債に依存する等の不安定な国状に見切りを付けた投資家は撤収を急いでいる。国内は、多くの企業が倒産し失業率は、現在22%に達し、公務員の給与も引き下げられ、公共投資も全面中止の状態にある。IMFは、支援を行うであろうが、今後、インフレに進む可能性は、避け難いものと思われる。

 

3  アルゼンチンITを支える産業基盤


(1) IT産業を支える通信インフラ

電話事業の分割民営化

 通信インフラは、IT産業を支える上で密接不可分のものである。通信インフラの主体となるアルゼンチンの電話事業は、1900年代における経済自由化の中で、1991年、それまで国営であったENTelが売却され、アルゼンチン北部を受け持つTelecom Argentina社と、南部を担当するTelefonica de Argentina社に分割民営化された。

また、長距離通話に関しては、上記2社の共同出資によるTelintar社に任された。



インフラ設備の整備、拡充

 この2社による独占的分割民営は、1999年まで続けられ、2000年11月をもって、通信事業は完全に自由化された。

 この凡そ10年間、Telecom, Telefonicaの2社は独占的営業権と引き換えに、インフラ設備の拡充、整備を義務付けられた。両社は、凡そ170億ドルの資金を投入し、インフラ設備に対する量的、質的整備拡充を実行し、新しいIT産業形成の基盤を造った。

 2000年11月以降の通信市場完全自由化を契機に新たに参入した、市内、市外、国際電話事業者、ケーブル、無線、衛星通信事業者、IP電話、インターネット事業者などのIT関連業者は、整備された通信インフラのお蔭で、自由化開始直後であるにも拘らず、2000年度は平均6%の成長率を記録した。これら以外の企業が成長率ゼロに止まっている事を考えると、インフラ整備の効果が如何に絶大であったかが分かる。

(2) インターネット等の普及状況

インターネット利用者の82%が24歳以上

 聞くところによると、アルゼンチン国内で、2001年末までにインターネットの利用者は、凡そ200万人に達し、120万世帯が加入したと言われている。

 この国の一つの特徴として、世界のインターネット先進国と異なり、年少者の利用は少なく、24歳以上の利用が82%を占めると云われる。また、利用の中身は、71%が商品購入関連であるが、オンライン決済はその中の15%に止まっている。ラテンアメリカ諸国の中で、アルゼンチンは、クレジットカードの利用率が高いにも拘わらず、このような状況である理由は、コンピューターネット上で実行する現金決済に懸念を持っているためと考えられる。

 2000年代に入ってからの、アルゼンチンにおけるインターネットの普及は、一見、凄まじいものがあるが、その中身を見ると問題が無い訳でもない。例えば、1998年末インターネット加入者は23万人であったが、その半数は高等教育機関関係で、残りの12万人がビジネス関係であった。そして、これらの加入者は首都ブイノスアイレス集中している。アルゼンチンの人口が3700万人で、この3分の1が首都に集中している状況を考えると、加入率が高いとは、必ずしも云い難い。

 また、インターネットの普及を促進する重要な要因として、アルゼンチンの特色を盛り込んだ内容豊富なコンテンツの開発がある。1999年、アルゼンチンのウエッブサイトは、4000程度に達したが、それ以降は伸び悩んでいる。


政府の施策

アルゼンチン政府が、1997年来、取り組んできたインターネット普及のための主な施策は、次のようなものである。

   A.   Telintar経由のISP向けインターネット国際接続料金を、従来の50%に引き下げ。

B. ダイヤルアップ接続用の特番(0610)を新たに設け、インターネット利用者の接続料金を割安化。

C. ISP事業者と通信事業者間における経済的、技術的契約の明確化。

D. インターネット利用の大衆化を図るため、非営利的な接続サービス機関の設置。

E. 高速データネットワーク開発のための、新規プロジェクト発足。

F. 遠隔医療のための、新規プロジェクト発足。

G. 全国に500の地域社会技術センターを設け、コンピューター、FAX,インターネット接続の啓蒙並びに支援。

H. 教育システムに対する、インターネットの積極的導入。


(3) 電子商取引

ラテンアメリカにおけるインターネット商取引

 通信インフラの整備や電話料金を含めたインターネットアクセス料金の改善等を勘案した上で、ラテンアメリカ全域における電子商取引は、2004年までに820憶ドル程度までになるであろうとの予測が出ている。また、同予測によれば、その中心となるのは、B2B取引で、そのオンライン決済額は、2004年で、760憶ドルに達すると見ている。

アルゼンチンの場合

現在、ラテンアメリカ地域の電子商取引に関しては、ブラジルが一歩リードしており、2004年には、640憶ドルのオンライン決済が予測され、アルゼンチンに関しては、100憶ドル程度とされている。ただし、この予測はブラジルなどにおける通貨切下げの前に発表されたもので、昨今の経済情勢を加味して修正し直す必要がある。

 また、先にも触れたが、アルゼンチンにおいては、利用者のオンライン決済に対する潜在的不安が解消されていない。これを解消させるための技術導入等、普及には、この予測より更に数年を要するであろう。

(4) ハードウエア関連産業

パソコン市場は米国製が大半

 IT産業を支えるアルゼンチンのパソコン市場をみると、2000年度、販売台数は48%の伸びを示している。数にすると、88万台で、国内におけるコンピュータ総数は、340万台に達している。

 ところで、これらのハードウエア機器は、殆どがアメリカ製である。現在、アルゼンチン内で使用されているサーバーやデータ通信機器の約90%は、米国製品で占められている。個人向けのパソコンに関しては、アメリカからの直輸入は減少する傾向にあり、ブラジルやメキシコからの輸入が増えている。しかし、これら製品は、IBM, Compaq, HPなどのアメリカブランドで、構成部品の80%は、米国製である。なお、最近、台湾のAcerが伸びて来ている点は注目される。


ハードウエア産業は黎明期

 アルゼンチン企業も、これらハードウエア関連市場に参入を目論んでいない訳ではないが、現在のところでは、小規模なコンピューター組立であるとか、既に導入された機器類に対する技術サービスぐらいの段階である。

 アルゼンチン政府は、これまでの自由化政策の見かえりとして、既に進出して来ているアメリカ企業などと積極的に提携して、新しいIT関連のハードウエア産業を興すべきであろう。


(5) ソフトウエア関連産業

ソフトウエア産業の将来性

 アルゼンチンは、この10年間、市場開放、規制緩和などの経済自由化政策を取って来たが、この中でも、通信事業の民営化と、これに対する規制緩和の成果は、先にも述べた通り、アルゼンチンの産業に大きなインパクトを与えた。その代表の一つにソフトウエア産業がある。アルゼンチンは、元来、高学歴社会を構成しており知的産業に対する十分な設立基盤を有していた。ソフトウエア開発は、知的技能主導の産業で、起業に当っては、ハードウエア製造などに比べると、投資が各段に少なくて済むと云う特徴がある。

 アルゼンチンにおいて、ソフトウエア並びにこれに関連するITサービスに従事する会社は、2000年には、約500社にのぼり、そこで働く人は、25,000名に達している。そして、これら企業の収入は、全体で20憶ドルにまでに到達し、1998年当時に比べると、40%の伸びを示している。これは、同国の景気が後退する中で、殆どの企業が苦戦を余儀なくされている事を考えると、特異と云える。

この傾向が持続し、2002年末には、収入規模は91.6憶ドル程度まで成長するであろう、とする予測もあるが、これは、昨今における通貨切り下げと急速な経済の停滞状況を勘案すると、殆ど不可能であろう。


(6) 労働事情

文化的色彩

 アルゼンチンは、ラテンアメリカ諸国の中においては、GDPは第2位、国民の識字率も高い。文化的には、民族的に見てもラテンアメリカ的と云うよりはヨーロッパ的である。

 人口は、首都圏に集中し、しっかりした中堅階級層を構成しているが、ここ10年間の景気低迷は、この層を直撃している。

強い労働組合

 労働組合は、伝統的に強い。技術革新に伴う省力化等、産業や社会構造の急速な環境変化に対応するためには、労働市場の意識改革が急務と思われる。



(7) 外資導入政策

外資の大半はアメリカ資本

 メネム並びにデラルラ政権は、一貫して経済の自由化と規制緩和をベースにした経済改革を進めた。

 この間、経済成長を促進する大きな原動力として、次ぎのような政策のもと、積極的な外資導入を図った。

A. 海外投資家に対する登記並びに許可の省略。

B. 海外投資家によるアルゼンチン企業の100%所有権の許可。

C. 海外投資家の株式投資に対する無許可制の実施。

D. 海外投資家による企業合併、吸収、ジョイントベンチャーの自由化。

 これらの結果、特にアメリカ資本の流入が、殺到した。ターゲットとなった主たる分野は、通信、石油ガス、金融,化学、食品加工、自動車であった。これらに対する株式投資額は、1999年末で160憶ドルに達したと言われている。なお、アメリカ以外では、カナダ、スペイン、チリが積極的であった。

外資導入の成果

 こうした成果の一つは、通信事業の民営化と、これに伴う接続料金の低下で、この事がインターネットの普及を推進し、更にこれを通した電子商取引、ソフトウエアビジネスなどの新しいIT関連産業の開発に繋がったのである。

(8) 知的所有権

問題点

 アルゼンチンにおいては、ビデオ、ケーブルテレビ、コンピューターソフトウエア,音楽レコードにたいする著作権侵害が、極めて日常的に横行している。これによって、アメリカ企業の蒙る損害は、年間2.75憶ドルに達するものと云われている。

 商標権についても、法律で保護はされているが、侵害事件は散見されているようである。

 パテントに関しては、法律的に不備で、完備された他のラテンアメリカ諸国などに対し、不利な立場に立っている。


(9) アルゼンチンにおけるIT、その光と陰

良くも悪くも政府主導

 アルゼンチンにおけるIT産業の盛衰は、ひとえに政府の政策に左右されて来た。政府の自由化、規制緩和、民営化などの経済改革が技術ブームを巻き起こし、新しいIT産業を芽吹かせた。

しかしながら、これら政策の実行過程の中で、特に固定為替制度への固執は、深刻な不況を招き、折角育ち始めたIT関連の中小企業を窮地の状態に追いやっている。

 脆弱な財務基盤の上に構築したIT産業が、安定して持続的に成長出来ず、1980年代の経済危機から折角立ち直ったかに見えたアルゼンチン経済は、再び大変な危機に直面して居る。

基盤強化のための梃入れ

 アルゼンチンの強みである教育基盤、この10年間に整備した通信インフラ、更には,地域的に育ち始めた新たなIT企業群などを巧みに活用して、再度復興の手掛かりを掴む方策を考えることが急務である。例えば、窮地に追い込まれた中小企業に対し、緊急的財務支援を行い、倒産を回避する傍ら、IT関連のこれら企業が集結する地域を経済特区のような形にして、再度、外資並びに海外企業を招聘出来る環境に再構築出来ないか。あいは、公立学校と企業を連携させ、高度な専門技術教育とリクルートの効率化を図るような施策を実行出来ないか。

 いずれにしても、現在、最悪とも思える経済危機を乗り切るためには、政府は、所謂TAKEする面を緩め、効果的なGIVEの政策を積極的に展開する必要がある。



外資の対応状況

 最近における外資の状況は、不況が深刻の度を増すにつれ、海外投資家は、投資の回収に廻り、また、進出した多国籍企業などは、需要の大幅な落ち込みに対応し、専ら在庫調整に追われている状況である。



4 サンタフェ州ロサリオ市におけるソフトウエア企業

 アルゼンチンにおいて、ソフトウエア産業が進んでいる地域は、首都のブエノスアイレス、ロサリオ市、コルドバ市である。本項は、今回訪問した企業の経営形態、事業の内容、事業収支の状況等についての感想である。

(1) 経営形態

同族経営

 今回訪問した企業は、殆どが、親族等を中心にした、所謂、同族経営の形を採っていた。聞くところによると、大部分の企業はこの形で、経営と資本が完全に分離している所は、現時点においては、数少ないようである。従って、良い意味で、極めて纏まりが良く、社内におけるコミュニケーションは円滑で、意識の共有化も図られ、モラールも高いように見うけた。なお、批判とまでは行かないまでも、このような経営を問題視する発言も無い訳では、無かった。

活力の源泉は若さ

 社長を始め、社員層は極めて若く、トップ30歳代は、珍しくない。そう言う意味で、活力を十分感じることが出来たが、結果的にこうした企業だからこそ、厳しい経済環境の中で、サバイバルして居ると云うことかも知れない。
従業員の規模は、大きい所で60人程度、平均20〜30人と云った所である。このような状況も手伝って、経営トップは、会社の隅々まで眼が行き届いている感じであった。



(2) 事業の内容

小規模システム

 各社のターゲットとする事業内容は、極めて多岐に亘るが、総じて小振りに纏まった、所謂、ニッチを狙ったものと云う事が出来る。

1,2例を挙げると、スペイン語インターフェイスによる中小企業向けのビジネス用パッケイジソフトの開発であるとか、同じくスペイン語インターフェイスで、旧型のコボル言語によるデータベースを、汎用型のオラクル型データベースに変換するためのソフトウエアツール類の開発と云った類のものである。従って、プログラム規模も巨大なものでは無く、一人の責任者(SE)が、全てを見渡せる範囲にあり、事実、そのようになっている。これらの責任者は、総じて若く、大変優秀であった。

プロダクトの管理は良好

ソフトウエアに関する生産物である仕様書、設計書、ソースコード等は、ソフトコピーとして全てコンピューター内に保管され、機能の追加、変更に伴う構成管理等の生産管理は、それなりのツールが用意され、整然と行われていた。

また、出荷後については、ヘルプデスクのようなものを用意し、サービス、運用体制につても十分な対応がなされている。全てでは無いが、中にはISO9000の認定を受けている所もあり、総じて、この程度の規模のソフト開発会社としては、極めて健全な仕事をして居る。



(3) 業収支の概況

平均的には、堅調な事業収支

 収入は、最も大きい所で、年間、200万米ドル程度で、平均的には、120万米ドル程度である。利益は、大きい所で、収入の25%程度、少ない所で、イーブン(0)と言っていた。平均的には、10%ぐらいと推察される。また、費用の中身は、約50%が人件費で、残りの20%が税金、他がオーバーヘッド等の共通経費と云った所である。

 なお、些か予想外であったが、これらコスト管理も、綿密に行われている。


変動相場制への対応は今度の課題

以上の数値は、昨年度、1ペソ=1米ドル固定時の決算値であり、変動制に移行し、ペソが大幅に切り下げられている現在、経営者にとっては、如何にしてドルベースで、従来の収入を確保して行くかが、最大の関心事である。彼等が、輸出に関心を持っている大きな理由の一つは、輸出により、ドルベースの収入が確保出来る点にある。

(4) 課題

大規模ソフトウエア開発への挑戦

 以上概説した通り、技術的に見ると、中小規模で、小人数で開発出きるソフトウエアに関しては、十分なレベルに到達しているものと推察される。

 ソフトウエア開発の難しさは、その規模が増大するに連れ、指数関数的に複雑さを増して行くものである。しかし、真のソフトウエアの効用と、技術的醍醐味は、大規模ソフトウエアと、その開発にあると言っても過言では無い。

この国におけるソフトウエア産業も、これまで着実に蓄積して来た技術を基に、更に一段上のレベルである大規模ソフト開発にチャレンジし、本格的なソフトウエア産業へ飛躍する道を模索すべきものと考える。

ソフトウエア製品の輸出振興

既に完成しているソフトウエア製品は、スペイン語インターフェイスと云う大きな特徴を生かし、言語、生活、文化等を共有するラテンアメリカを含む近郊諸国に対し、積極的なマーケティングを行うべきであろう。

欧米諸国で開発されているSAPやピープルソフトなどのパッケイジソフトに比べると、これらの製品は、言語と文化を共通にする諸国においては、モデフィケイションが極めて少ないか、もしくは殆ど行わなくて済むと思われるので、優れた競争力を持つものと考えられる。



5 日本アルゼンチン(日亜)経済委員会

以上述べた通り、アルゼンチンは経済危機の最中にあり、IT産業を含め、産業全般にわたって、その振興、育成については、極めて容易でない状況下にある。しかしながら、IT産業については、縷々述べた如く、他の分野に比べると比較的恵まれた状況にある。その中でも、ソフト開発に関しては、着実な歩みを見せて居り、教育水準等を考えると、かなりのポテンシャルを有しているので将来性が期待出来る。

 また、この章の冒頭で述べた通り、今世紀はコンピューターネットワークを軸にした情報技術(IT)による社会システムの世界的変革期である。

経済再建には、行政コストの削減は避けて通れぬ道であるが、現在のところ、この国の国民に対する各種行政サービスのコンピューターネットワーク化は、国民総背番号制を採っているにも拘わらず、殆ど手付かず状態にある。現在力を蓄えつつある現地のソフト産業の振興と合わせ考えると、アルゼンチンに対する技術協力の重要なテーマとして、ナショナルサービスのコンピューターネットワーク化は、正に打って付けではないかと思う。

現在、日亜経済委員会「基本戦略研究会」の客員として、以上に関した後方支援を中心に、システマティックな対応が出来るよう色々お手伝いをさせて戴いている。



Z 結び

シニアボランティア事業の限りない可能性

 シニアボランティアに応募してから、丁度3年が経過した。この間世の中も随分変わったが、筆者自身も、今までに無い経験をさせて貰い大分物の見方が変わったような気がする。会社を離れ余計なしがらみから逃れられたためか、あるいは外国で多少孤独になった所為か感覚が幾分研ぎ澄まされ、今まで見えなかったものが見えて来ているような気がする。

 シニアボランティア事業は、シニア世代の再開発、再利用を図る極めて巧妙で、もって行き方によっては大変な可能性を秘める、優れたシステムであると痛感する。

現在、事業は、シニアボランティア個々の活動に委ねられているところが大きい。それはそれで結構であるが、産、官が組んだ後方支援組織を作り、システマティクに活動をバックアップ出来るようにすると、また新たなスケールの大きい事業に発展出来るのではないかと思う。

 現在中進諸国においては、コンピューターの効果的な導入を如何にすべきか、あるいは新しい通信ネットワークを如何に整備したらよいかと云った問題に直面している。かつては、この種のビジネスの匂いがすると、日本の商社やメーカーなどは、箱物を主体に競って売り込みに励んだものであるが、昨今は、リストラに追われてか、あるいは問題が大き過ぎるのか、あまり見向きもしない。

 言うまでもないが、これらは当事国にとっては極めて重大事で、計画の策定に当っては、技術の動向などを十分見極め、現状を十分把握した上で、最終形態に至るまでの段階を踏んだ青写真を描き、これを丁寧にフォローして行かねばならない。

 このような問題のあるところに、シニアボランティアが独り、短期間出向いても出来ることは総論的な極めて限られたコンサルテーションにならざるを得ない。その実行過程を考えると、具体的なシステム作りの問題、これに要する資金の問題に対する見通しをつけなければならないからである。このような事態に遭遇すると、どうしても先に指摘した組織的後方支援が必要なのである。

勿論、国家的見地から厳選し何もかにもやる必要はないが、推進すべきプロジェクトは、数少ないとは思えない。

 我田引水と思われるかもしれないが、こう云ったプロジェクトでフロントの立つ役割はシニア向きである。彼等は既に同じような経験を国内で積んでいるからである。ただし、シニア自身も日進月歩する技術革新をフォローする努力を怠ってはならないが。

最近の傾向として、鈴木宗男問題や三井物産の国後島における不正入札事件以来、「商社は、政府開発援助(ODA)からは撤退した方がよい。本当に透明な競争入札を実施されたら、とても経済合理性に合わない」と云う声が聞かれる。ODAは談合抜きでは考えられないビジネスと云うのが、この業界の常識であるからであろう。

しかしながらこの問題の背景には、率直に言って官の怠慢が無い訳ではなかろう。商社が、本来、外務省やJICAが行うべき仕事の一部を肩代わりして来た所がある。

ODA案件の発掘から、日本政府への申請までには、数年に亘る準備期間が必要であるが、この作業を無報酬で相手国にやって来たのは商社ではなかったのか。商社は、案件形成に汗を流せば、ビジネスになるという暗黙の了解があったからこそやって来たのであろう。ところがその前提が崩れてしまえば、手間を掛けて準備をしても落札出来るとは限らないし、落札出来ても入札でたたかれ、更に談合が表に出れば世間から指弾される、これでは、やりたがらなくなるのも、あながち無理からぬ話である。

このままでは、ODA案件発掘に支障を来たすだけでなく、政府開発援助全体が暗礁に乗り上げてしまう危険すらある。この状況を打開する一つの方策として、シニアボランティアの活用が考えられるのではなかろうか。

案件発掘からプロジェクト形成の段階で、シニアボランティアが活躍出来るような仕組みを創り、適切な広報のもとで人材募集を行うなら、現下の情勢を考えると適材が集まるものと確信する。

 折角踏み込んだワンダーランドである。更に魅力溢れるシニアボランティア事業に成長,発展するよう、これからも微力を尽くしたいと念願している。 

以上