村上OB (2004年トンガ・カンボジア派遣)



私の仕事
――タパ作り盛んな国でもICTネットワークは必要だと信じて


仕事では毎日が、薄氷を踏むような気持ちで思考錯誤の連続で送って来たTCC (Tonga Communications Corporation)の仕事も大詰めに来ました。2年間の仕事を以下に振り返ってみました。


1.勤務時間を守る

TCCの勤務は午前8:30〜12:30、午後は13:30〜17:00です。これはトンガの他の会社と共通します。私は07年3月健康診断帰国から帰還した際、日本で風邪をひいてきて一週間、計画課長に断って朝9時出勤としましたが、それ以外は朝8時出勤をきちっと守っています。日本では基本的なことですが。席を置く計画課は8人いますが、赴任した当時は勤務時間がでたらめでした。ところが赴任した3ヶ月目の06年8月からは、全員勤務時間を守るようになりましたね。彼等の間でどんな話し合いがなされたのか知りませんが。。私自身、特に昼食時間は、車で2kmの自宅に帰って昼食をとって戻るのは大変です。何故毎日帰るかって?オフィスは郊外にあるのでレストランはありませんので、ヌクアロファへ出て食事をしたのでは、1時間では戻れません。日本人の几帳面さの文化を伝えようと思いました。私が帰国後も意外と守られるかも知れません。TCCは民営化された、会社らしく幹部達は現在ではカミを見習えと推奨しているようですから。



2.故障統計を生かしたメンテナンス管理をやろう

電話サービスの設備には建物の中に置かれる交換機など局内設備と、交換機から加入者をつなぐ、線路設備の局外設備があります。

局内設備は精密機械ですから一般的に、空調の部屋に設置されています。従ってメンテナンス方法は、暑いタイでも、島国のトンガでも同じ方法です。これに対して局外設備は天日にさらされているので、その国の自然環境、社会環境(交通事情など)によりそれに対応したメンテナンスが必要です。ここでは海岸付近は塩分対策、樹木の生長が早いのでケーブル保護対策などなど。

私の派遣先は局外設備担当する「線路・計画部」です。相棒の線路・計画部長、その上司技術局長と協議して、「メンテナンスサービスの改善」「光ファイバー網の導入計画」の二項を主なアクションプランとすることにしました。

早速06.7から、現状調査のため、故障修理班、新規電話開通班に同行して07.4まで外回りを続けました。その間に、発生する技術相談も受け処理しました。回答、提案は、すべて文書でEメール報告するようにしました。処理した主なものは、

@ヌクアロファ中心街の地下ケーブル管路詰まり解決対策

AAMラジオ放送波の誘導雑音除去対策

B加入者ケーブル拡張計画における電話需要予測方法

C地上DP(加入者への配線端子器)の安全な設置方法の提案

D電話加入社宅発見方法の提案

などがあります。

Dについて概要説明しますと、外回りでお客様の住宅を探り当てるのに毎回平均30分位浪費します。トンガには番地がありません。住宅地図もありません。例えば私の家は500戸位あるトフォアというビレッジのTCC社宅です。従って社員は土地勘を働かせてビレッジに着くと「日本人のカミの家は何処か」と訊く訳です。トンガ人は決して知らないと言いませんから兎に角教える。とんでもないところを教えられる場合もあります。特に、引っ越したばかりの人の住宅探しは大変で、新規電話加入工事で半日を消費するのはざら。

解決策として、私は加入者宅近くの道路の電柱番号をワークオーダに記載してはどうかと、提案しました。電柱には規則正しく番号が打たれているのを、トンガ在住のOさんから聞いていたからです。提案は採用されませんでしたが、それを受けて、計画課で各ビレッジ毎の住宅地図を作り始めました。住人の名前、電話番号入りの、ゼンリン地図に似たやつ。

07年5月に、現状調査を踏まえて、社長、技術局長以下、線路・計画部の幹部に集まってもらい、メンテナンス改善についてプレゼンテーションを開催しました。

Plan-Do-See-Actionサイクルの実施という目新いことではありませんが、NTTでやった予防保全を、「目標を立てやること」が必要と、提案しました。特に不良施設の管理取替えを。

2番目の仕事に取り掛かっていた昨年11月、工事課の係長がやってきてチョッと付き合えと私をウトラウというビレッジまで連れて行き、保護対策を施した「地上DP」を見せました。C関連を実行してくれたのでした。私はナケナシノ語学力で「イッツパーフェクト」と礼を言って彼と握手し写真をとりましたねえ。



3.タパ織の国でもICT光ネットワーク開発は必要と信じて

1)トンガは、固定電話14000、携帯電話を加えると34000、100人当たりの電話普及率は34。これはTCCだけの数値なので、トンフォンの携帯電話を加えると40000を超えると予想されます。電話普及率は世界的規模で見ても、結構高い方だと思います。隅々まで回ったトンガタプ島では、殆どの家庭には電話が引かれていました。前任地のカンボジアに比較するとさすがに、GDP3000ドルパーキャピタの国と思います。海外送金が重きを占めているのが現実ではありますが。

2)TCCは2002年に国内通信サービスのトンが電話公社と、C&Wの国際通信サービス会社が合併し政府100%所有の会社として民営化され今日に至っています。技術はC&Wが指導していたようで、作業手順、報告様式、とか基準、規定は結構確立されていることが、電気通信に携わってきた感で、赴任して3ヶ月ほどで理解しました。要するに、器は出来て居るのです。中身がチョッと問題と言うところです。

3)通信網は、一台の複合交換機(エリクソン製)で国際ゲートウエイ、中継、市内、交換全部をまかなっています。市外番号はなく、携帯電話を含めて5桁(トンフォンは確か6桁)と小規模です。各ビレッジに設置されている遠隔小局の交換機は全て無線で結ばれています。離島は衛星中継、TCCの電話需要からすると、現在はこれで十分かも知れません。

4)訪れつつあるICT時代を考慮して、トンガタプ島の交換局を高速インターネット需要に柔軟に対応できる容量を持つ光ファイバー網で結ぶ開発調査を07年10月からOJTを兼ねて、TCC社員と共に開始しました。

丁度トンガ政府が、昨年11月、ICT駆使のe政府戦略を発表したので、タイミングとしては、良かったと思います。調査目的も政府のICT戦略を支える基幹通信網の開発調査としました。遠くは日本総務省の太平洋諸国を高速ディジタル網で結ぶという構想にも合いますしね。

08年元旦に、TCCの社長が、新年挨拶に来た際、説明し、彼は納得。2日に営業局長が訪問した際にも説明しました。「通信網は今の無線で十分」と言う彼女を説得するのに、知らぬ間に大手を広げて説明しましたね。100kgバデイから発射されるネイテイブ英語の嵐をかいくぐって彼女を説得するのに、正月から大汗。それでも彼女は「OK」と言って帰りましたけれど。

5)1月20日、ドラフトリポートを関係者に提出する予定です。




ある誕生パーテイ――コミュニテイと宗教

TCC(トンガ通信会社)へ赴任した初週の土曜日、勤務先の線路部計画課のエサフィから、息子の誕生パーテイに誘われた。特段の用事がなかったので出席することにした。冠婚葬祭体験は赴任国文化を知る上で効果があるという考えを持っていたのも突然の招待に応じる返事をした原因でもあったようである。

15人ほどのこじんまりしたパーテイでエサフィの妹達の家族、奥さんの親族、其れに息子の極く親しい友人が集った。トンガのご馳走には欠かせない子豚の丸焼きとトンガの刺身、オタイカもチャンと揃っていた。何故赴任して一週間も満たないシャポニの爺さんを招待したのかは疑問であるが、私のデジカメが目的であることが後でわかった。つまり写真係として招待されたようである。

それはさておき、吃驚したのは、パーテイの始めに彼の妻の母親が聖書を持って説教を始めたことである。少しの間は、聖書の或る部分を読んだ。出席者は一様に首をたれて粛々と聞いている。その後、彼女は聖書を閉じ自分の言葉で説教を始めた。

その内説教者は興奮し、嗚咽を交えながらの説教になった。当の息子も感激してか、貰い泣きをしている。エサフィも彼の妻の義兄夫婦もシンミリト聞き入っていた。私はカメラのシャッターを切るのも遠慮勝ちに出席者の顔を覗いてみた。みんなしんみり聞き入っている中で、小さな小学生の彼の娘や姪甥が説教中はしゃいでいたのがせめてものメッケ物であった。小さな子供たちまでしんみりし聞き入っていたら、流石に私は居たたまらない気がしていたからである。

残念ながら、全ての説教はトンガ語で行われたので内容は解からなかったが、多分敬虔な話であったに相違ない。21歳の誕生日を迎えた青年に、感涙を与えた説教である。

私は自分の事を考えてみた。日本で孫の誕生日に説教できる祖父さんがいるか。精々ご機嫌とりが関の山ではあるまいか。それより、果たして孫の誕生日に我息子が私を招待するか前段にあるなと思ったりした。トンガはキリスト教の信仰が厚い国とは聞いてきたが、子供の誕生パーテイにも祈りを捧げる風景を私は赴任一週間目に目にしたのだった。

トンガでは、少なくとトンガタプ島では教会が全島に亘って存在する。兎に角車で島を巡るとメイン道路沿いにさまざまな形をした教会が建っている。教会も今までの経験からイメージするのと違ってさまざまである。十字架を配した特長のある教会のイメージを持っていたが、トンガでは外観普通の建物と何ら変わらない教会もある。

職場の社員から、散在する教会は大体ビレッジごとに存在することを教えられた。従ってトンガタプ島は多くのビレッジで成り立っていると言うことである。異邦人の私には知る由もないが、日本の都市で言えば、各町内毎に教会があるということであろうか。「仙台市泉区北中山教会」と言う風に。ヌクアロファでさえ、どうもそうしたコミュニテイの集合体の形態が色濃いようで、地元の人々は首都をヌクアロファ市とは呼ばない理由もそこにあるのかもしれない。

トンガは又、信仰の自由が歴史的に保証されていて、各種のキリスト教がある。カソリックが最も多いようであるが、プロテスタントもある。モルモン教会も有る。先日引越ししたオフィスの窓から500mほどのところに、Ecumecal Centerと壁に書いてある立派な建物を発見したので、行政関係の建物かと辞書を引いてみたら世界統一教会とあった。序であるが、教会は高速インターネットなどを使用してくれる、TCCの大口のカストマーでもある。

エサフィの家の近くを、仕事で彼と一緒に通りかかった際、彼は公民館みたいなところで停車し、何か遣っている人達に話を掛けて挨拶をした。何だと聴くとコミュニテイセンタで教会に属しているのだと言う。殆どの教会はこれを持っていると教えてくれた。

どうもトンガでは、教会は日本で言う公民館みたいなコミュニテイの場所としても機能しているようである。だから、市民は日曜日はミサに出席するばかりではなく、地域社会の社交の大事な場所として過ごすようである。日曜日、教会の側を通ると近くの道路には終日駐車している車を見かけるのが常である。これはミサに出席した人達が引続いて飲んだり話したり、食べたりして信仰をあっためているのである。

日曜日のヌクアロファ市内の商店街は、人影はなくもぬけの殻のように静かである。私は着いた当座、日曜日この街の繁華街を見て、西部劇、ヘンリー・フォンダ主演の「荒野の決闘」をイメージしたものだった。特に朝の繁華街は、あの映画さながらに、人影が全くない。ウィークデイはあんなに賑わっている繁華街が眠っている。

然し教会の側を通るとそこはまるで逆で普段は目立たない教会の周囲は日曜日は鐘が鳴るのは、別にしても人々で溢れるのである。

トンガでキリスト教が地域に浸透しているのは住んでみるとわかるが、そのほかに一般的に慣習になっているのは、全ての儀式が祈りの宣誓から始まるのである。TCCで種々な社内パーテイに何回か出席したが全て祈りをささげ「アーメン」と宣誓してから始まり終わるのである。聞くところによると国会も勿論祈りをささげてから開会するそうである。私は出席したことは未だないが、各種のミーテイングも祈りで始まり終わるらしいのである。

それに関係ないのは、私が毎週土曜日に参加するトンガゴルフクラブのコンペの開閉会式くらいだろうか。たしかに、競技の前に揃って祈るのはどうも不釣合いのようではある。

その後、私はエサフィに誘われて2回、エサフィ家が出席する日曜ミサに参加した。その内の1回は、日曜学級の年一回の発表会の日で、お抱えカメラマンとしてだった。その日は、教会堂の狭い舞台で幼児から大人まで、一年間練習してきた宗教劇の発表会だった。小学校の学芸会のような舞台装置であったが、みんな初々しく演じた。長い台詞を一年かけて練習したのだろう。

演劇は午後8時頃まで続くと言うので、私は6時過ぎに辞したのだった。

(2006.06.15 中華レストランココスにて)





サモア人の家のかたち
―フィージー・サモアの小さな旅

幼少の頃夢中になって読んだ「宝島」の作者、スティーブンソンの博物館があるというので、それを含んだ一日ツアーに参加することにした。往年彼が住んだ広大な屋敷がそのまま博物館になっている、とぶらりと立ち寄ったサモア観光局の案内書にあったからである。

一週間逗留したモーテルの女主人に朝食後に参加を頼み、夕方、明日のピックアップ時間を確認しょうと部屋から出てきたところを見計らって尋ねた。「ごめんなさい。忘れていた。これから手配するからここで待っていて」と私を待たせて彼女は5人目の幼子を抱いたまま、加入電話と携帯電話を使いながらしばし、電話を掛けまくっていた。5分ほどして「ポリネシアンツアーにした。きっと満足するわよ」とキョトンとしている私を前に大柄な体躯をゆすって人懐っこい笑いを送ってきた。

一週間サモアに滞在しているうちにすっかりサモア人慣れをしていた私は、気楽な一人旅であることもありスティーブンソン博物館訪問はあっさり諦めポリネシアンツアーなるものに変更することにした。

翌日、ピックアップ時間は朝8時とモーテルの女主人から言われていたが、サモア時間の8時半にワゴン車がやってきた。本日の客は、私の他にスコットランドを9月初旬に出発し2ヶ月かけての旅行中というイギリスのうら若いお嬢さん2人組であった。カリフォルニアからやってきて、上海へ向かう途中であるという。

ポリネシアンツアーのツアーガイドは中年のサモア人で、私の体型に似た細身であった。アロファシャツにジーパンといういでたち、日焼けした顔で親しく我々ツアー客3人の相手をしてくれた。

時々観光案内はしてくれるが、後ろ座席をのぞきながら、盛んに私たちに話しかけサモアの話をしてくれる。

彼は12人の子供たちがおり、男女6人ずつである。大きいほうは35歳で仕事をしていると説明した。一番小さいのはどれ位かと金髪のお嬢さんの一人がいたずらっぽく質問すると、15歳だと答えた。すでに結婚している何人かの子供たち夫婦は親と同居しており孫の面倒を親に預けて仕事をしていると言うことである。子沢山は彼の家族に限らず平均的なサモアの家族構成だという。彼の話から想像するに彼の家には総勢20人は暮らしているようだ。

彼の説明によると、サモア人は家族全員一つの部屋に寝るのだそうである。そうなると個室というものがないから四六時中顔をあわせて生活することになる。そこで家族の協力絆が生まれる。これは彼の家族に限っての事ではなく、一般的なサモア市民の生活スタイルである。このつながりはビレッジ規模にも共通し、その結果としてサモアの助け合いの精神は全国民に広がっていると言うのである。

ツアーを通じて、通過した道路から見渡せる散在するビレッジのどの家を見ても、広い空間が設けられている建物が目に入った。たぶん団欒の場所か寝るところだろう。そこで昼寝をしている人々ののんびりした光景も目に入った。柱と屋根だけのある簡単な建物も多く目に飛び込んできた。大半はきちんとした壁や窓を備えているが、外から見た限りでは家の中はいくつかの部屋に区切られているようには見えなかった。なるほど、ツアーガイドの説明が理解できた。全員共同の生活スタイルであれば、家族が10人であろうと、20人であろうと、ある程度の広さを確保できれば生活スペースに問題はないわけである。

私の目に入った、一割ほどの家は壁もない柱と屋根だけがある家であった。蚊を恐れる私は、夜、蚊は大丈夫か、サイクロンのなど風雨が厳しいときはどうなるのかとあらぬ心配が心をよぎる。そういえば、雑魚寝の話は、子沢山の終戦前後の日本にも普通にあったことである。私も6人兄弟姉妹である。

日本人はそれを豊かでない、少なくとも西洋式の、個室を持った生活スタイルが、理想だとみんな信じてそのように生活スタイル、家の構造を変遷させて今日に至っている。

然しサモア人の考え方は違う。この伝統的生活スタイルは、すばらしいものであり、守り通そうとする心意気がある。私はいつの間にかこのスタイルに拍手を送っている自分を発見したのだった。

首都アピア滞在中、私は暇に任せてバスターミナル併設のマーケットにしげく足を運んだ。そこでサモア料理を食べていると、フィージー人のように愛想良い挨拶は送らないが、朴訥とした、「共存」を感じる親切心に触れる場面にいくつも遭遇した。これはサモアの一つの文化である。

旅の友になった二人のイギリスの若い旅人とツアーガイドに、私は「日本は現在、実際に人口が減り始めており、我々日本国民は如何に人口の増加を図るかいろいろ考えている。サモアの生活スタイルは大いに参考になりました」と私の感想を述べると、彼女たちは賛同を示してくれた。

ツアーガイドは「サモアに移り住んだら。。幸せになるよ」。

私たちは、きれいな長い砂浜の観光リゾートで昼食を挟んで3時間を過ごした。若い旅の乙女たちは暫し海水浴を楽しみ昼寝した。私はひねもす、のたりのたりと、青い空の下の白い砂の浜辺をさ迷い、空いているバンガローを見つけて昼寝をした。

日本の、時間に緻密なバスの旅とは異なった旅であった。モーテルの部屋に帰ってからなんとなく『ずいぶん、ゆっくりとした旅だったな』と一人つぶやいた。スティーブンソン博物館は見られなかったけれど、このようなたゆとうに流れる時間の中にいると「宝島」のような物語も生まれるかもしれないと勝手に想像した。

(2007.9.30フィージー ナンデイ マカンボホテル)